幕間:荷物ひとつ分
この宿の売りは、安いことだ。
飯は出ない。部屋は狭い。建物も古い。
二階へ上がる階段は何段か軋むし、雨の強い日には窓際へ桶を置かなければならない部屋もある。
その代わり、寝る場所だけ欲しい客には都合がいい。
そして、意外なことに客足は途絶えない。
町へ着いたばかりの旅人。懐の寂しい冒険者。もう少しましな宿へ泊まりたくても、財布がそれを許さない連中。
そんな客が意外と多いのだ。
一晩泊まって消える者も珍しくない。二日、三日いれば長い方だ。
だからボノは、宿帳に書かれた名前をいちいち覚えたりはしない。
覚える必要がないからだ。
それなのに最近、一人だけ覚えてしまった名前がある。
ライアス。
少し前、この宿へやってきた若い冒険者だ。
荷物は少ない。大きな武器も持っていない。
宿帳へ名前を書かせて、一泊分の金を受け取り、空いていた安い部屋を渡した。
その時は、翌日にはいなくなるかもしれない客の一人だと思っていた。
翌朝。
ライアスは荷物を全部抱えて階段を下りてきた。
「世話になりました」
「おう」
ボノも、それで終わりだと思った。
ところが、その日の夕方。
入口の扉が開いた。
朝と同じ荷物を抱えたライアスが立っていた。
「部屋、空いてますか?」
「ああ」
また一泊。
次の日の朝になると、ライアスは荷物をまとめて出ていった。
そして夜になると戻ってきた。
「今日も泊まるのか?」
「はい」
その次の日も似たようなものだった。
朝には荷物を抱えて出ていく。
夜には荷物を抱えて戻ってくる。
何度目だったか。
いつものように荷物を持って階段を下りてきたライアスを見て、ボノはとうとう声をかけた。
「お前、それ毎日持って歩いてんのか」
ライアスが自分の荷物を見る。
「はい」
「なんでだよ」
「今日も泊まるか分からないので」
「分からないって、お前」
ボノは呆れてから、帳場の横を顎で示した。
「部屋は空けてもらうが、その荷物は置いてけ。ここで預かってやる」
「いいんですか?」
「預かるだけだ。本当に町を出る時は持ってけよ」
ライアスは少し迷った。
それから荷物を下ろした。
「じゃあ、お願いします」
「おう」
その日も、夕方には戻ってきた。
「今日も泊まります」
「だと思ったよ」
荷物を返すと、ライアスは何事もなかったように二階へ上がっていった。
それからは、宿代がその日までしか入っていない朝でも、荷物を一部預けて出ていくことが増えた。
最初のうちは、そのたびに遠慮した。
「今日も、いいんですか?」
「いいって言ってんだろ」
次の日も聞いてきた。
その次もだ。
さすがに面倒になった。
「言うこと聞かねえなら、もう泊めてやらねえからな」
そう言ったら、ようやく観念したらしい。
それからは何も言わず、必要な荷物だけ持って出ていくようになった。
もちろん、何日かいるつもりの時は先にまとめて払う。
「三日分、先に払っておいていいですか」
「三日?」
「そのくらいはいると思うので」
「なら三日分な」
三日が過ぎると二日分。
次は一泊。
また何日かまとめて払うこともある。
どうやら本人にも、いつまで町にいるのかはよく分かっていないらしい。
ただ、朝になると出ていく。
夕方か、少し遅ければ夜に戻ってくる。
毎日同じ格好で帰ってくるわけでもない。
泥をつけている日があれば、木屑らしいものを肩につけている日もあった。何かを抱えて戻ることもある。
冒険者なのだから、仕事をしているのだろう。
何の仕事かまでは知らない。
聞こうとも思わなかった。
この商売をしていれば、客の事情へ首を突っ込まない方がいい時くらい分かる。
それにライアスは、放っておいて困る客ではなかった。
酔って戻ってくることもない。
夜中に騒ぐこともない。
他の客と揉めない。
部屋もひどく汚さない。
宿代も払う。
安宿の主人からすれば、それだけで十分だった。
ある日の夜。
入口の扉が開いた。
「戻りました」
「おう」
帳場で硬貨を数えていたボノは顔を上げ、鼻をひくつかせた。
「お前、今日はいい匂いさせてんな」
ライアスは立ち止まり、自分の服の辺りを嗅いだ。
「そうですか?」
「肉でも食ってきたか」
「ああ。今日は一品増やしました」
「……一品かよ」
「結構しましたよ」
真面目な顔で言うので、ボノは鼻で笑った。
「そりゃよかったな」
「はい」
ライアスはそのまま二階へ上がっていった。
最初に来た頃より、多少は財布に余裕が出たのかもしれない。
だからといって、もっといい宿へ移るとは言わない。
ボノとしては、その金を宿代に回したらどうだと思わないでもなかったが、客がどこで何を食おうが勝手だ。
数日後。
昼過ぎに新しい客が来た。
荷物を背負った男が一人、入口から中を見回す。
「安い部屋、空いてるか?」
「ああ」
ボノが宿帳を開いていると、階段を下りてくる足音がした。
ライアスだった。
今日はこれから出るらしい。
帳場の脇には、すでに預けられた荷物が置いてある。
「ボノさん」
呼ばれて、ボノは顔を上げた。
「今日、戻るの少し遅くなると思います」
「そうか」
返してから、手が止まった。
「……おい」
「はい?」
「俺、お前に名前言ったか?」
ライアスが少し考えた。
「言われてないですね」
「じゃあ、なんで知ってんだ」
「こないだ、他のお客さんが呼んでたの聞こえたので」
ボノはしばらくライアスを見る。
そういえば、この若いのは耳がいいとか言っていた気がする。
「……そうかよ」
「はい」
「遅くなるなら、入口閉める前には帰れよ」
「分かりました」
ライアスが外へ出ていく。
宿帳を書いていた男が、扉の方をちらりと見た。
「知り合いか?」
「客だよ」
「長いのか」
ボノは帳場の脇に置かれた荷物を見た。
「まあな」
それだけ答えて、宿帳を受け取った。
その日の夜。
思ったより早くライアスは戻ってきた。
「ただいま戻りました」
「遅くなるんじゃなかったのか」
「早く終わったので」
「そうか」
ボノは帳場の脇の荷物を指した。
「ほら」
「ありがとうございます」
荷物を受け取ったライアスは、その場で財布を取り出した。
「あと二日分、お願いします」
「二日でいいのか?」
「たぶん」
「また、たぶんかよ」
「仕事次第なので」
ボノは二日分を受け取り、宿帳へ印をつけた。
「まあいい。部屋はそのまま使え」
「はい」
ライアスが二階へ上がる。
古い階段が、いつもの場所で軋んだ。
しばらくして、上で扉の閉まる音がする。
ボノは宿帳を閉じた。
帳場の脇には、明日の朝も荷物一つ分くらいの場所はある。




