第7話 入院3か月目。
「右腕のギブスを外すよ?」
バルト先生とエルマさん二人掛かりで、そっとわたしの右手を固定していた添え木が外される。出てきた自分の右手が妙に細いことに驚く。筋肉が落ちてしまうって、そういうことなんだ。
「うん。大丈夫そうだね?しばらくすると左手と同じくらいになるから心配しないでね?」
私が右手をまじまじと見ているのに気が付いたバルト先生が、にっこり笑って教えてくれた。頭のガーゼも外された。
「もう少ししたら、松葉杖が使えるようになるからね。そうしたら、自分で動けるからどこにでも行けるよ?」
先生はそう言うけれど…私がいったいどこに行くって言うのか?
そうは思ったが、とりあえず笑っておいた。
控えていたフローラが、長いこと拭いてもいなかった右腕を綺麗に拭いてくれた。
両手を握ったり開いたりしてみる。
***
「今日は図書館に行きましょう。雨ですものね」
フローラがそう提案して来たのは、5月にしては珍しく雨が続いた日。
両手が使えるようになって、体を起こすのが楽になった。急に起き上るとわき腹が痛むのでそっと起きる。わき腹の湿布はもうなくなったが、半年ぐらいは痛みが続くのだとバルト先生が言っていた。
行きたくないなどと反抗したところで、フローラに抱え起こされるのがわかっているので、ベッドから自分で起き上って右足をかばうようにしながら、ベッドに座る。
松葉杖の練習が始まって、お天気のいい日には中庭まで出る。毎日少しずつ歩く距離が伸びていく。
図書館は車いすで何度か行った。病院の端に在って、お隣に併設されている国立アカデミアの医学部と渡り廊下でつながっている。
いつもより少し多めに歩くことになりそうだ。
ゆっくり歩いて行ったが、ほんの少し息が上がる。図書館に着いた時には結構疲れていた。フローラは付いてきてくれるが一切手出しはしない。この人は変なところで徹底している。そのかわり、廊下の窓から外を眺めて、ライラックが咲きましたね、などと話しかけてくる。
少々休もうと、図書館の入り口近くのソファーに座り込むと、白衣を着て新聞を読んでいた男が、バサリッと新聞を折り返した。よほど面白いことが書いてあるのか、真剣に読んでいるようだ。
「フェルナンドさん、おはようございます」
隣に座る男にそう私が声を掛けると、驚いたのかビクッとした彼は、慌てて新聞を向こう側に畳んで置いた。
「おはよう!べーべちゃん。雨だから来るかと思ったら、やっぱり来たね?」
この人にもずいぶんと慣れた。勧めてきてくれた本はどれも面白かったし、この人の軽口もイリアの国民性なのだと理解すると、不思議ではあるが気にはならなくなってきた。
「随分熱心に新聞を読んでいらしたけど、何か面白い記事でもありましたか?」
「え?ああ。うーん……まあ、いいか。君も知る権利位あるだろうしね」
そう言って、珍しく歯切れの悪いフェルナンドさんが、私に先ほどの、今日の新聞を渡してよこした。折りたたまれた新聞を広げてみると……一面には…
【王太子アデラール殿下の婚約者決まる。お相手はアーベル公爵家マルグリット嬢】
いきさつと一緒に、お二人の横顔が載っている。記事にはマルグリット様が言っていたように、フールへの留学が決まっていたため、婚約式後に2年間留学し、その後結婚するらしいことが書いてある。
マルグリット様……なんて強い女性なんだろう。自分のやりたいことは決してあきらめずに折衷案を提案したに違いない。
(そうか。もう5月なんだ)
読んでいた新聞に水滴が垂れるのを不思議に眺めていた。
フェルナンドさんの白衣がふわりと頭に掛かる。かすかに柑橘系の…オレンジの匂いがする。
ふわりと体を持ち上げられる。白衣が視界を塞いでいるが、フェルナンドさんに抱きかかえられたことはわかった。
「フローラ、僕が部屋まで運ぶよ。すまないけど急患が入って僕のこの後の講義は自習になったって伝えてくれる?」
「はい」
ほんの少し揺れながら、廊下を運ばれていくのがわかる。
先ほどから流れ始めた涙はまだ止まりそうにない。私は白衣に顔を押し付けて…それでも止まらない。
「…そうか、そんなに好きだったか?」
「……」
好き?…何のことかしばらくわからなかったが、流れから言ったら殿下のことだろうか?そう思って…クリスティンは殿下の顔を思い浮かべようとしたが…思い出せなかった。
「…殿下を、ですか?そんなこともないです」
「じゃあ、なぜ泣いているのかな?」
「……」
この涙がなんなのか…クリスティンは鼻をすすりながら考える。
「ああ、ようやく終わったんだなあ、って…気が抜けちゃいました。私はもうとっくに…殿下の婚約者候補は辞退していますけど」
「…そうか」
部屋のベッドにそっと下ろしてもらったが、頭からすっぽりかぶせられた白衣はそのままだった。フェルナンドさんが私の両手を包み込むように握ってくれる。
「何でもいいよ、話したいことがあったら話してごらん。泣くって行為はね、すごくいいことなんだ」
「……」
私は…母に自分の意見を言うことを諦めてしまうきっかけになった、古い友人の話をぽつりぽつりと話した。フェルナンドさんが肯定も否定もしないで、ただ聞いてくれた。
それから…母が私のためにしてくれた、いろいろな…話…。
「なんだか…殿下の婚約も決まって…私は空っぽになった気がします。なあんにもないんです。悲しくもなければ、悔しくもないし…かといって嬉しいわけでもないんです」
「そうか。空っぽって悪いことじゃないよ?それだけ空き容量が大きいってことだからね?」
「……」
涙って…こんなに出るものなんだ…。
フェルナンドさんの白衣で涙と鼻水を拭きながら、それがなんだか不思議なことだと私は思った。




