第2話 馬車の事故。
「いやああ!クリスティン!」
「…奥様…ここは病院です。お静かに願えますか?」
「でも、先生!!!」
今ほど泣いて叫んだのは、母だろうか?いつも淑女然として、大声など上げたところを見たことがないが…そんなことを朧げに考えながら、クリスティンは自分が随分と朦朧としていて、半分夢の中にいるような、夢の中で母の叫び声を聞いたような…不思議な感覚だった。懸命に母をなだめている父の声も遠くに聞こえる。
「…王立病院が近かったのが幸いしましたね。お嬢さまの怪我の状態を主治医から説明させますので……」
…怪我?ケガしたんだ…そう言われれば体中痛い。そんなことを思いながら…私はまた眠ったようだ。
***
寝返りを打とうとして、体中に鈍い痛みを感じる。体が自由に動かない。
クリスティンがゆっくり目を開けてみると見慣れない天井が見えた。
(…どこ?)
侍女を呼ぼうと手を伸ばすと、見たことのない男の人が私の顔を覗き込んだ。
「目が覚めましたか?」
(誰?)
そう思いながら、しばらくその人の顔を眺めた。よく日に焼けた顔に黒髪。どこかで見たことのある気がする淡い緑色の瞳。誰だったか思い出そうとしたが、わからない。その人はにっこり笑うと、今まで座っていたらしい椅子から立ち上がって、その後ろのカーテンを開けた。
「バルト先生、目が覚めたよ」
静かな、それでいて聞き取りやすい声だった。
バタバタッ、と、サンダルを鳴らしながら白衣を着た男の人が顔を出した。この人も見たことがない。先生と呼ばれていたところを見ると、医師なのだろう。先ほどの男の人もカーテンの前に立っているようだ。
「ああ。君は随分眠ったんだよ?ここは王立病院だ。心配しなくていい」
…優しい声だ。そっと私のおでこに置いた手も、随分と優しい。
「熱も下がったね。良かった。僕の声が聞こえるかい?」
答える代わりに頷く。
「息がしにくかったりしない?」
そう聞かれたので、深く息を吸い込んでみる。右側の脇が痛い。
「息をすると…少し痛い、です」
うんうんと先生が頷いている。
「君は馬車の事故にあって、あちこち怪我をしたんだ。右腕は折れているから固定してある。あと、打った肋骨は湿布してある。幸い折れてはいなかった。右足首も折れていて固定している。腫れがひどい。少々動きにくい状態なんだ。今のところは無理に動かずに、炎症が治まるのを待とう。それから…」
先生はちらりと少し遅れて入ってきた年配の女性を見る。こくんと頷く女性。恰好からして看護師だろう。
「それから、頭をガラスで切ってしまってね、傷口を縫うのに仕方なく髪を切らせてもらった」
「……」
「これから長い治療が必要なんだ。君の協力なしではできないことなんだよ?わかるかな?」
「…はい」
ほっとしたような顔をした先生が、私に聞いた。
「じゃあ、まず、自分の名前を言えそうかな?」
「クリスティンです」
***
クリスティンは意識が戻ってもしばらくの間は医師の詰め所が近い救急用の病室に留め置かれた。
頭を打ったことと、圧迫された肋骨が呼吸を妨げる恐れがあるかららしい。
担当の熊のような茶色の髪ぼさぼさの髭もぼさぼさの先生、バルトルト医師は何もかも包み隠さずに教えてくれた。御者も一緒に乗っていた侍女も思ったより軽傷で済んだらしいと聞いてほっとする。
足首が折れた右足は膝の下から固定されていて、いくつか積んだクッションに乗せられている。右腕も固定されて、首からおおきな布で吊るされている。右の脇腹は湿布されているだけだが、寝返りを打つと痛いので、毎日ほぼ仰向けに眠っている。
時々看護師さんが来て、背中に枕を入れて上半身を起こしてくれたりしてくれる。
鏡を見ていないので、頭がどんな状況なのかはわからないが、ズキズキして痛い。
…頭だけじゃなく、体中痛い。
全治6か月。
そう説明を受けた。
「…それにねえ、貴族用の病室に移動したとたん、お見舞いの人やら花やら物やらが押し寄せてくるでしょう?いくら面会の制限を付けても来るんだよね。まあ、心からお見舞いしたいというなら、そっとしておいてほしいもんだと思わない?」
先生は見た目は熊なのに、女の子のような言い方をするので、くすっ、と笑ってしまって、わき腹が痛い。
「貴族のお嬢さまには少々窮屈な部屋かも知れないけど、ここは安全だからね?」
先生が私に言い聞かせるようにそう言う。
髪が男の子のように短い。出血がひどく、急いで傷口近くは剃ったと聞いた。そうする必要があったのも説明を受けた。
私の意識が戻ってから私を訪ねて来た母は泣き崩れた。
「うちの子は、うちの子はもうすぐ王太子殿下と婚約できたかもしれないんですよ!それをこんな!こんな髪にしてしまうなんて!酷過ぎる!!侍女が死ねばよかったのよ!」
おいおいと泣き崩れる母を、父が引っ張っていく。
「大丈夫だよ、クリスティン。生きてくれていただけで、お父さんは嬉しいよ」
…なんというか…なんと声をかけてあげればいいかわからなくて、薄らと笑ってみた。




