第11話 入院5か月目。
フローラさんに編み上げブーツを履かせてもらって、そっと左足を床に付ける。
エルマさんとフローラさん二人に支えられて、少しずつ体重をかける。正直怖い。
今朝、バルト先生がやって来て、私の右膝から下に長いこと固定されていた木枠が外された。
右手の添え木が外されたときも思ったが、妙に白くて細い自分の右足をクリスティンは久しぶりに見た。
「手は離さないので大丈夫ですよ?」
そうエルマさんは言うが、怖いものは怖い。
筋肉が落ちているので力が入りにくいが、1か月もしたら戻るだろうとバルト先生が言う。
いや、1か月後より、今この一歩が怖い。
それから…歩けるようになったら、私はあの家に戻るのか?
そう思うと、歩けなくてもいい気もする。
「お風呂に入れますよ!」
フローラさんが変な励まし方をするので、笑いそうになる。
「病院の図書館だっていつでも行けますよ」
踏み出す…一歩。
*****
松葉杖を一本は使ってはいるが、私はずい分と歩き回れるようになってきた。もうこれからは日常生活での機能訓練になるそうだ。
トイレに一人で行く。
から始まって、どんどんとできることが増えていく。もちろんフローラに手伝っては貰ったが、お風呂にも入った。毎日のように図書館にも行く。階段の上り下りはまだ不安だが、平らなところなら松葉杖もいらなくなりそうだ。
私は最近、よく笑うようになったと思う。
カツラ事件はかなりショックだったが…おかげでなにか吹っ切れたのかもしれない。あの時も遅い時間に走ってきてくれたフェルナンドさんの顔を見て泣いてしまった。
あの人の側にいると私は、安心して…泣きやすいのかもしれない。
泣くだけ泣いて……フェルナンドさんがいてくれると私はどんどんと軽くなっていく気がする。
これが…お義姉様がお勧めの恋愛小説で何度も読んだ“恋”というものかどうかはよくわからない。初めてのことだもの。
でも私は…フェルナンドさんの柔らかな緑色の瞳が大好きなんだ。
変な言い方かもしれないが、あの人にしがみ付いて泣くのも好きだ。なんか…上手く言えないけど。
***
しばらくぶりに訪れた父と話した。
フローラは医局から氷を貰ってきて、冷たいレモネードを出してくれた。
父は、母を連れて領地の屋敷に引っ込むと言い出した。
クラーラお義姉様に子供ができたらしく、いい機会だから兄に家督を譲るのだそうだ。
今日の私は動きやすいように半そでのシャツにスラックス。父に貰った編み上げブーツを履いている。向かい側に座った父に、いつか言おうと思っていたことを話しだす。
「お父様、私はもう家には帰りません」
「……そうか」
予想していたのか、父は短く了承した。
「で、どうしたいんだ、クリス?」
「いま、考えています」
そうか。とまた父が言う。
ほっとしたような、それでいて寂しそうな笑顔だった。
「…そうか。金の心配はするな。どこにいてもたまに、手紙をもらえたら嬉しい。クラーラにでもいい」
「はい」
「あのな…クリスに謝らなければいけないことがある」
私がレモネードのストローで氷を掻きまわしていると、父が改まって言った。
「私は…昔からお前たちの母親…アルマが好きだった。侯爵家の美しい娘だった。政略結婚だったが伯爵位の私のところに嫁に貰えた時は嬉しかった。公爵家との縁談話もあった様だった。だから私は…アルマの希望はなんでもかなえてあげたかったし、やりたいことはやらせたかった。アルマがどんどん子育てに夢中になっていったのも…私がもっとよく見ていればよかった。すまなかった。子供によりよい身分の伴侶を求めること、アルマは本当にそれが子供への愛だと信じていたんだ。私は……」
「……」
「私はどこかでアルマに遠慮していた。私は領地に帰ってもう一度アルマと…妻と向き合うつもりだ」
「……」
「いつか…会いに来てくれないか?」
「……」
父は深々と頭を下げると、返事を返せない私を、困ったような顔で見て笑った。
カランッ、とグラスの氷が溶けて音を立てた。
帰る父を玄関まで見送りに出た。
私の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれる父に並んで歩く。
「…ねえ、お父様。お母様は、あのカツラで…私に何をさせようと思っていたのかしらね?」
「うん。それは私も考えていたんだが」
立ち止まって私を見た父が、眩しそうに私を見た。
「クリスが…クリスティンが、幸せになることを望んだんじゃないのかな」
「……」
「不器用な人なんだよ」
「……」
父が、私を包み込むようにハグをする。
木々が落とす影が随分と濃くなった。
もうすぐ8月になる。




