第10話 医局。
「ああ、フェルナンド、呼び出して悪かったな。忙しかったんだろう?」
「学生と実験室に入っていたからね。遅くなった」
バルトルトは書いていたカルテから目を離して、今しがた医局に入ってきたフェルナンドを振り返った。
「クリスティンは眠ったかい?」
「ああ。ホットミルクにブランデーを入れたのを飲ませたんだ。泣くだけ泣いて眠ったよ」
「そうか…。あの子、随分お前になついたな?」
こいつがクリスティンを、僕の金色のひよこちゃん、と呼んでかわいがっているのはフローラに聞いて知っている。
「……」
「もうすぐ行くんだろう?イング国。いつだ?」
「仕事は9月からだから、8月になったら出るかな」
「大出世だな。おめでとう。その年で、しかもイング国のアカデミーの教授だもんな。今度お祝いに飲みに行こう。8月ならあの子が一人で歩くのも見れるか。ずいぶん気にかけてくれたんだろう?あ、コーヒーで良いか?」
エルマさんが帰り際にポットに作っておいてくれたコーヒーを二人分入れる。フェルナンドがポケットからブランデーの小瓶を取り出して「お前も入れるか?」と聞くので、頷いた。今日の当直の医師はもう仕事に入っている。久しぶりに帰れそうなので、こいつと飲みに行ってもいいくらいだ。
「どうした?本気で惚れちゃったか?フェルナンド。なんとなく、お前らしくないな。あんまり患者さんには深入りしないやつだと思っていたけど?」
ほんの少ししか入れていないが、ブランデーのいい香りがする。
「そうだなあ。同情しちゃったかな。この国の貴族で、あの年で社交界に戻れなかったりしたら…可哀そうだなってね?」
「ん?まあ、怪我はもうじき治るし、髪はな…1年ぐらいでは伸びないか。でも、伸びないわけじゃないし」
「だな。俺みたいに…」
「フェルナンド?お前はものすごく頑張ってみんなに認めさせたじゃないか?イングの教授だぞ?医学生の頃の様に、肌の色なんか誰も気にしないさ」
あははっと笑う昔からの友人を眺める。
もう何年前になるかな。この国ブリアに留学して来たこいつは、もうイリアの医師免許も薬師資格も持っていた。一年この国の大学で学べばこの国の受験資格が取れる。薬師は難なく取ったが、その頃の医学部のおえらさんが、こいつの皮膚の色を理由に…医師試験は不合格になった。僕らは同期のみんなで抗議したが、聞き入れてもらえなかった。
今度こいつがフール国で書いた論文で認められて、この国のアカデミアの助教授に呼ばれて初めて…アカデミアとしての正式な謝罪とブリア国の医師免許が交付された。
「まあ、確かにあの頃は、ブリアは色の白い人至上主義、みたいな、な。まあ、今もあんまり変わらないか」
「そ。だからこの国で俺が誰かに惚れることはないなあ。考えてもみろよ、褐色の子供が産まれるんだぜ?俺は結婚もしないつもりだし」
「……」
「ふふっ、クリスティンは本当に世間知らずな箱入り娘なんだな。俺のこと、日に焼けた人だと思ってるんだよ。そうやって狭い世界で生きていくんだろうな、って思ったよ」
思い出し笑いしているフェルナンド。
こいつの褐色の肌は、シヴァ国から来たフェルナンドの母親の色。髪の色も。
どうもこいつの父親が買い付けに行った先で恋に落ちて…そのまま連れて帰ってきたらしい。父親に似たのは穏やかな緑の瞳。不思議なことに、同じ母親だというのに、こいつの兄は色が白い。兄弟は微妙な関係のようだ。
イリアにある家と爵位は兄が継いで、弟であるフェルナンドは爺さんがやっていた商社を貰う。薬や薬草をかなり手広く扱う商社で、遠く華国や菜国、母親の国であるシヴァ国とも取引がある。
ここ何年、その薬を求めて各国から問い合わせが来るので、あちこちの国で薬師の免許を取ったらしい。そう思って取れてしまうのがこいつの天才、というか…鬼才?と呼ばれる所以。そうして、そこまでしないと褐色の肌の商人が信用されないこの国の、いや、この大陸の生き難さでもあるのだ。
「イング国はこれまた白人至上主義だからね。俺はイングの学生時代、レストランにも入れなかった」
「……」
「社会からはみ出しちゃうって、意外とつらいよ?俺はクリスティンがそうなったら可哀そうだと思う反面、この子自身が強くなったら、人生もっと楽しいだろうにな、そう思ってさ」
ほんの少し恥ずかしそうにフェルナンドが笑う。
俺はモテなくてこの年でも独身だが、同じ年のこいつはモテモテでも誰も信用していないきらいがある。いや、いつ誰に裏切られても何とかなるように、期待もしないでふわっと生きているふりをしているのかもな。
「じゃあ、お前の出世を祝して、飲みにでも行くか」
「あははっ。行くか。もちろんおごりだよね?」
俺は白衣を脱いでフェルナンドと医局を出る。途中、クリスティンの病室を覗いたが、よく眠っている様だった。




