3-1「虹の帳をこえて」
雲の海を抜けた先に、それはあった。
虹色に揺らめく、薄い膜。天空をぐるりと覆う結界だ。精霊以外の者を、決して通さない。
そう聞いていたのに、私の体は、そのまま膜をすり抜けた。かすかに肌がむずむずしただけだった。
「……拒むには、少々、格が高すぎたようですね」
声に出してから、自分で少し笑った。誰も聞いていないのが、ちょうどいい。
結界の内側には、空に浮かぶ島があった。大小いくつもの浮島が橋でつながれ、その中央に白い城がそびえている。風車が回り、光の粒が街路を舞う。
天空都市ファルネリア。精霊女王が治める、地上から切り離された楽園だ。
私は、手のひらに目を落とした。
小さい。とても小さい。背中には透き通った羽、髪は白くふわふわで、背丈は人の手のひらほど。今回選んだのは、妖精の姿だった。
近くの水たまりに映してみる。
「……ふわふわなのは、変わらないのですね」
*
街へ降りると、道行く精霊たちは、皆どこかが光っていた。
風の精霊は髪が風になびき、火の精霊は指先に小さな炎を灯し、水の精霊は裾からしずくが落ちる。ここでは、普通の姿のほうが目立つ。
……ただ、妖精の私は、さらに別の意味で目立っていた。
「見て、あれ。羽があるわ」
「妖精……? 絵本でしか見たことない」
どうやらここでは、妖精は伝説の存在らしい。
居心地が悪くなって、近くの屋根に逃げ込もうとしたとき、上空から悲鳴が降ってきた。
「きゃああああ! どいてどいてどいてー!」
見上げる間もなかった。
緑色の髪の少女が、くるくる回りながら、目の前に突っ込んできた。
*
「ご、ごめんなさい! 風の練習中に、制御を間違えちゃって……」
少女はフィルと名乗った。風の精霊の見習いだという。見た目は十歳ほどだが、精霊の年齢は、見た目では分からない。
ぶつかる寸前に飛び上がった私は、彼女の頭の上に、ちょこんと座っていた。
「あなた、妖精さん? 本物?」
「ええ。迷い込んでしまって。ポメリィと申します」
名乗りを臨機応変にするのも、旅の知恵だ。
「わあ……! 妖精さんなんて、初めて! ねえ、うちに来て! お茶、出すから!」
疑う様子もなく、彼女は私を両手でそっとすくいあげた。
手のひらの上で、私は少し考えた。彼らは、外から来た存在を、こんなにも簡単に受け入れてしまう。結界が守ってきた平和というのは、きっと、こういうものなのだ。
*
フィルの家は、風車小屋だった。
窓の外に、夕暮れの雲海が広がっている。私は小さなカップの縁に腰かけて、蜂蜜入りの温かいお茶をいただいた。
「ねえ、ポメリィ。外の世界って、どんなところ?」
フィルは、窓辺に頬杖をついた。
「私ね、この都市から出たことがないの。みんな、結界があるから外は危ないって言うけど、本当かな」
「そうですね」
私は少しだけ考えて、答えた。
「危ないことも、あります。けれど、あたたかい人も、たくさんいますよ」
「ほんと?」
フィルの目が、きらきらと輝いた。
そのとき、ふと窓の外に目が留まった。雲海が、思ったより近い。
「……フィル。雲は、いつもこんなに近いのですか?」
少女の笑顔が、すっと消えた。
「……最近ね、少しずつ、近くなってるの」
小さな声だった。
「みんな、気のせいだって言うんだけど。……島が、沈んでるんじゃないかって、私、思うの」
窓の外で、雲がゆっくりと流れていく。
それは確かに、昨日より、少しだけ近づいているように見えた。
「先輩、妖精って、やっぱり小さいんですか?」
「手のひらサイズだよ。ちなみに髪は、ふわふわのままだった」
「……先輩、どの姿でもふわふわなんですね」
「そこだけは、譲れなくてね」




