↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/18

2-5「北を指す小さな針」

嵐が去った朝、世界は嘘のように静かだった。


 砂は洗われたように滑らかで、空は高く青い。駱駝が一頭だけ行方知れずになったが、あとは全員無事だった。

 水は、残りわずか。ザイドの熱は、まだ引ききっていない。


「進むぞ」


 それでも彼は言った。ただし今度は、私とハッサンが両脇から肩を貸した。ザイドは何か言いかけて、やめた。そのまま黙って、歩いた。

   *

 三日目の昼、先頭の駱駝が、ぴたりと足を止めた。

 ナジムが、遠くを指差した。


「……あれは、蜃気楼じゃ、ないよね」


「違えよ」


 私は、にやりと笑った。


「あの先は、水だ。信じていい」


 砂丘の向こうに、緑が広がっていた。ヤシの木、白い壁、人の声。隣国のオアシス都市だった。

 誰からともなく、歓声があがった。ハッサンは駱駝にしがみついて泣いた。

 ザイドは、深く息を吐いた。


「……一人も、欠けなかったな」


「ああ。今度こそ、な」


 口にしてから、しまった、と思った。それは、犬の私にだけ向けられた言葉だった。

 ザイドの目が、わずかに見開かれた。それからふっと、三日ぶりに笑った。

   *

 街の宿で、ナジムは木箱の前に座った。

 ハッサンが、布をほどいてやる。


「実はな、わしはカリムの古い友人でな。ザイドから話を聞いて、この仕事を引き受けた。あの箱をおまえさんに届けると、約束したんだ」


 ハッサンは照れくさそうに頭を掻いた。


「だから、護衛が逃げても、募集の紙を貼り直し続けた。商人は、約束を守ってこそだからな」


 箱の中には、真鍮の小さな羅針盤と、折りたたまれた一枚の紙が入っていた。

 ナジムは、震える指で紙を開いた。

 ――ナジムへ。

  迷ったら、北を探せ。

  それでも迷ったら、隣にいる大人に聞け。

 父の字は、不器用で、ひどく読みにくかった。

 それでもナジムは、何度も何度も読み返した。そして顔を上げ、隣に座るザイドを見た。


「……ザイドさん」


「ああ」


「迷ったから、聞いてもいい?」


「何でも聞け」


「僕、ザイドさんと、一緒にいてもいい?」


 ザイドは、しばらく黙っていた。

 やがて、大きな手を、少年の頭に置いた。


「……俺でよければ、な」


   *

 別れの朝、私は荷を肩に担いで、宿の門に立った。


「報酬は、いらねえ。用が済んだ。俺は行く」


「報酬を断る護衛が、どこにいる」


 ハッサンが目を丸くした。ザイドは、じっと私を見ていた。


「ポメロ」


「何だ」


「お前は、あの白い犬と、同じ目をしているな」


 一瞬、心臓が止まったかと思った。


「……そうかい。犬に似てるなんて、初めて言われたぜ」


「そうか」


 ザイドは、それ以上何も聞かなかった。ただ静かに笑って、頭を下げた。

 街を出て、人気のない砂丘の裏で、私は犬に戻った。

 歩き出そうとしたとき、背後から小さな足音が追ってきた。


「待って!」


 ナジムだった。息を切らして、私の前にしゃがみこむ。


「ポメロさんに、ありがとうって伝えて。……犬に言っても、伝わらないか」


 小さな手が、私の背中を撫でた。

 私はきゃんと一声鳴いて、少年の頬を、ぺろりと舐めた。


 砂丘の向こうで、ナジムはいつまでも手を振っていた。


 その手の中で、小さな羅針盤が、陽を受けてきらりと光っていた。

「先輩、ザイドさんって、気づいてたんでしょうか」


「さあね」


「聞かなかったんですか?」


「聞かれなかったからね。……でも、黙っていてくれたのは、ありがたかった」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。