2-5「北を指す小さな針」
嵐が去った朝、世界は嘘のように静かだった。
砂は洗われたように滑らかで、空は高く青い。駱駝が一頭だけ行方知れずになったが、あとは全員無事だった。
水は、残りわずか。ザイドの熱は、まだ引ききっていない。
「進むぞ」
それでも彼は言った。ただし今度は、私とハッサンが両脇から肩を貸した。ザイドは何か言いかけて、やめた。そのまま黙って、歩いた。
*
三日目の昼、先頭の駱駝が、ぴたりと足を止めた。
ナジムが、遠くを指差した。
「……あれは、蜃気楼じゃ、ないよね」
「違えよ」
私は、にやりと笑った。
「あの先は、水だ。信じていい」
砂丘の向こうに、緑が広がっていた。ヤシの木、白い壁、人の声。隣国のオアシス都市だった。
誰からともなく、歓声があがった。ハッサンは駱駝にしがみついて泣いた。
ザイドは、深く息を吐いた。
「……一人も、欠けなかったな」
「ああ。今度こそ、な」
口にしてから、しまった、と思った。それは、犬の私にだけ向けられた言葉だった。
ザイドの目が、わずかに見開かれた。それからふっと、三日ぶりに笑った。
*
街の宿で、ナジムは木箱の前に座った。
ハッサンが、布をほどいてやる。
「実はな、わしはカリムの古い友人でな。ザイドから話を聞いて、この仕事を引き受けた。あの箱をおまえさんに届けると、約束したんだ」
ハッサンは照れくさそうに頭を掻いた。
「だから、護衛が逃げても、募集の紙を貼り直し続けた。商人は、約束を守ってこそだからな」
箱の中には、真鍮の小さな羅針盤と、折りたたまれた一枚の紙が入っていた。
ナジムは、震える指で紙を開いた。
――ナジムへ。
迷ったら、北を探せ。
それでも迷ったら、隣にいる大人に聞け。
父の字は、不器用で、ひどく読みにくかった。
それでもナジムは、何度も何度も読み返した。そして顔を上げ、隣に座るザイドを見た。
「……ザイドさん」
「ああ」
「迷ったから、聞いてもいい?」
「何でも聞け」
「僕、ザイドさんと、一緒にいてもいい?」
ザイドは、しばらく黙っていた。
やがて、大きな手を、少年の頭に置いた。
「……俺でよければ、な」
*
別れの朝、私は荷を肩に担いで、宿の門に立った。
「報酬は、いらねえ。用が済んだ。俺は行く」
「報酬を断る護衛が、どこにいる」
ハッサンが目を丸くした。ザイドは、じっと私を見ていた。
「ポメロ」
「何だ」
「お前は、あの白い犬と、同じ目をしているな」
一瞬、心臓が止まったかと思った。
「……そうかい。犬に似てるなんて、初めて言われたぜ」
「そうか」
ザイドは、それ以上何も聞かなかった。ただ静かに笑って、頭を下げた。
街を出て、人気のない砂丘の裏で、私は犬に戻った。
歩き出そうとしたとき、背後から小さな足音が追ってきた。
「待って!」
ナジムだった。息を切らして、私の前にしゃがみこむ。
「ポメロさんに、ありがとうって伝えて。……犬に言っても、伝わらないか」
小さな手が、私の背中を撫でた。
私はきゃんと一声鳴いて、少年の頬を、ぺろりと舐めた。
砂丘の向こうで、ナジムはいつまでも手を振っていた。
その手の中で、小さな羅針盤が、陽を受けてきらりと光っていた。
「先輩、ザイドさんって、気づいてたんでしょうか」
「さあね」
「聞かなかったんですか?」
「聞かれなかったからね。……でも、黙っていてくれたのは、ありがたかった」




