2-4「嵐の夜に呼ぶ名」
翌朝になっても、ザイドの熱は下がらなかった。
それでも彼は立ち上がり、駱駝の手綱を取った。
「進む。水が、保たない」
誰も反対できなかった。傷のある肩は布の下で赤く腫れ、歩くたびに額に汗が浮く。それなのに、彼は一度も弱音を吐かなかった。
昼を過ぎたころ、空の端が、赤黒く染まった。
「……砂嵐だ!」
ハッサンが叫んだ。
壁のような砂煙が、地平線の向こうから迫ってくる。駱駝たちが一斉に鳴き、あちこちへ走り出した。
「伏せさせろ! 荷を捨てるな!」
ザイドの声が、風にちぎれる。
私はナジムの腕を掴み、岩場の陰へ飛び込んだ。ハッサンとザイドも、這うようにして続く。
直後、世界が砂になった。
*
どれほど経ったのか。
岩陰にうずくまる四人の周りで、風が獣のように唸っていた。外はもう、昼とも夜ともつかない。
「……カリム」
ザイドの唇から、うわごとがこぼれた。
「すまない……カリム……」
ナジムの肩が、びくりと震えた。
「今、お父さんの名前……」
少年はザイドの襟を掴んだ。
「教えてよ! お父さんは、どうなったの! みんなが言うみたいに、逃げたの!?」
「ナジム、やめなさい」
ハッサンが止めようとしたとき、ザイドが目を開けた。熱で濁った瞳が、少年を見た。
「……逃げて、ない」
かすれた声だった。
「三年前、俺たちは、この砂の海で砂賊に囲まれた。逃げ場はなかった。……カリムは、笑って言ったんだ。『おれが引き付ける。お前は、ナジムを連れて行け』と」
誰も、息をしなかった。
「俺は、行った。お前を荷車に乗せて、振り返らなかった。……あとで戻ったときには、もう、誰もいなかった」
風の音だけが、岩の隙間を通っていく。
「護衛が逃げたという噂は、流れるに任せた。真実を話せば、お前は俺を恨むと思った。……いや、恨まれたかったのかもしれん。見捨てた男が慕われるのは、苦しい」
ザイドは、荷の中の小さな木箱を指差した。
「あれは、カリムが最後に俺に託したものだ。お前に渡してくれ、と」
ナジムは、動かなかった。
やがて、両手で顔を覆って、声を殺して泣きはじめた。
「……お父さんは、逃げなかった。逃げなかったんだ……」
「ああ。誰よりも、勇敢だった」
ザイドの声も、震えていた。
ハッサンは、そっと目をそらした。私もそうした。男の姿の肩が、少しだけ重かった。
*
夜が更けて、風は少しずつ弱まった。
私は「ちょっと外を見てくる」と言い残して岩陰を離れ、犬に戻った。
ザイドの傷は深い。熱は上がる一方で、手当てだけでは間に合わないかもしれない。
翼を広げれば、治せる。嵐を払い、彼らの旅路を楽にすることもできる。
――けれど。
私は、ザイドが三年間、自分一人で抱えてきたものを思った。今夜、彼が自分の口で語ったことを。
それを、力で包み込んで、なかったことにしてはいけない。
そっと岩陰に戻り、ザイドのそばに丸くなった。
すると、熱に浮かされた手が、無意識に私の背中を探して、撫でた。
「……犬、か。……あたたかいな」
私は目を閉じて、ただ、体温を分けた。
嵐の夜は長かった。それでも夜明け前、ザイドの呼吸は、ゆっくりと深くなっていった。
「先輩、どうして力を使わなかったんですか。使えば、すぐ治せたのに」
「治すだけなら、ね」
「……?」
「あの人に必要だったのは、自分の口で話すことだったんだよ。それに」
「それに?」
「犬の体温は、意外と高いんだ」




