2-3「偽りの灯」
夜明け前の空は、不気味なほど静かだった。
「起きろ」
ザイドの声は低く、短かった。護衛が二人しかいない隊商で、これほど頼りない朝はない。
砂丘の稜線に、黒い影がいくつも並んでいる。弓を持つ者、曲刀を担ぐ者。数えるのをやめた。二十は超えている。
「砂賊だ」
ハッサンの顔が、みるみる青ざめた。
「ザイドよ、荷は捨てて逃げよう。命あっての物種だ」
「それが賢い」
ザイドは頷いた。けれど、続く商人の言葉は、私の予想と違った。
「だが、あの木箱だけは……あの木箱だけは、渡せん」
布に包まれた小さな木箱を抱きしめる腕は、震えていた。
戦えば負ける。逃げても追いつかれる。
ザイドが曲刀の柄に手をかけたとき、私は小さく息を吸った。
「……俺にいい考えがある」
「何だ」
「時間をくれ。それと、駱駝の鈴と松明を全部貸せ」
*
砂丘の裏に回り込んだとき、日はまだ昇っていなかった。
松明を砂に等間隔で刺し、駱駝の鈴を縄でつなぐ。薄闇の中、遠目には、大勢の兵が並んでいるように見えるはずだ。
あとは、声だ。
「弓隊、配置につけ! 合図まで動くなよォ!」
野太い声。
「へい、隊長! 準備できてまさァ!」
しゃがれた老人の声。
「右の岩場にも二十人潜んでる! 見落とすな!」
若い男の声。
一人で何役も演じ分けながら、鈴を鳴らし、砂を蹴って足音を重ねる。
演技力には、少し自信がある。
砂賊たちが、ざわつくのが見えた。
「待ち伏せか?」「話が違う!」
頭領だけはまだ疑っている。けれど、手下たちの足が止まったのは確かだった。
……効いている。
*
ただ、世の中、そう思い通りにはいかない。
「ハッタリだ! 松明がまっすぐすぎる! 突っ込め!」
頭領の怒鳴り声に、私は唸った。几帳面に並べすぎた。反省点だ。
砂賊の一団が、砂丘を駆け下りてくる。
その前に、ザイドが一人で立ちはだかった。
「ポメロ、ナジムを連れて下がれ」
「馬鹿言え、一人で――」
「いいから行け!」
私はナジムを抱えて、駱駝の陰へ走った。振り返ると、ザイドの曲刀が朝日を反射して、一閃した。
強い。一人で四人を斬り伏せる。
けれど、横合いから別の賊が、ナジムに向けて矢を放った。
「ナジム!」
その矢を、ザイドが体で受けた。
鈍い音がした。彼は、膝をついた。
それでもザイドは立ち上がり、残る賊たちに、低い声で告げた。
「……次に来るやつは、覚悟しろ」
頭領が、ザイドの顔をじっと見た。
「……お前、前の隊商の生き残りか。懲りずにまた、砂の海に来たのか」
ザイドの肩が、一瞬震えた。
やがて頭領は舌打ちをして、手下に合図した。賊たちは、砂丘の向こうへ引いていった。
*
静まった砂の上で、ナジムが震える声で呟いた。
「前の隊商って……お父さんの……」
ザイドは何も答えなかった。血の滲む肩を押さえて、ゆっくりとその場に座り込んだだけだった。
ハッサンと私で傷を縛るあいだも、彼は目を閉じたままだった。
ハッサンが、木箱を抱きしめたまま、ぽつりと言った。
「やつらの狙いは、この箱だったのか……」
その夜、ザイドは熱を出した。
皆が寝静まったあと、私は犬の姿で、彼の枕元に座っていた。傷は深い。翼を使えば、きっと治せる。
けれど――。
「先輩、本当に声だけで追い払おうとしたんですか?」
「声と、駱駝の鈴と、松明と、ちょっとした度胸でね」
「それ、天使の力じゃなくて、ただの一人芝居では……」
「一人芝居も、立派な力だよ。まあ、松明は並べすぎたけど」




