2-2「蜃気楼の湖」
夜明け前の隊商宿は、駱駝の鳴き声でいっぱいだった。
隊商の主は、ハッサンという名の丸々と太った商人だった。
「おお、おまえが新しい護衛か! いい面構えだ。ひげがいい! ひげが!」
無精髭を褒められたのは初めてだ。私はとりあえず、「あァ、どうも」と低く返しておいた。
隊商は駱駝十五頭。荷は香辛料と織物、それに、布で厳重に包まれた小さな木箱がひとつ。荷運びの見習いとして、ナジムという十四、五歳の少年がついていた。
「ポメロさん、駱駝に乗ったことある?」
「あるわけ……あるに決まってんだろ」
ない。降り立ったばかりだ。
乗ろうとすると、駱駝は私を一目見るなり、ぷいっと顔をそむけた。次の駱駝も、その次も。十五頭すべてに、順番にそっぽを向かれた。
「お前、何かしたのか」
ザイドの声は平坦だった。
「何もしてねえよ!」
動物は、上位存在の気配に敏感なのかもしれない。そう考えて、少しだけ得意になった。
結局、私は徒歩で隊列に加わることになった。
*
砂の海に入ると、世界は黄色と青の二色になった。
熱い風が肌を焼く。男の体はこういうときは頑丈で、犬の私よりずっと歩ける。そこだけは悪くなかった。
昼を過ぎたころ、前方に湖が見えた。青く光る水面、揺れるヤシの木。
「水だ!」
ナジムが叫んで走り出した。
「馬鹿、止まれ! 蜃気楼だ!」
私は反射的に追いかけて、少年の襟首を掴んだ。
「離してよ! 水が、あそこに――」
「ねえんだよ、あんなもん! あの先は砂だけだ。信じたやつから、先に死ぬ」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
ナジムは唇を噛んでうつむいた。ザイドが無言で水筒を差し出すと、少年は受け取って、少しだけ飲んだ。
「……ごめんなさい」
「いい。……よく止めた」
最後の一言は、私に向けられていた。
ザイドの口元が、ほんの少しだけゆるむのが見えた。
*
その夜の野営地で、私は「ちょっと用足しだ」と言い残して茂みに入り、犬に戻った。
焚き火の近くでは、ナジムが一人で膝を抱えていた。私を見ると、ぱっと顔を上げた。
「あ、昨日ザイドさんのそばにいた犬だ!」
見られていたらしい。
ナジムは私を抱き寄せて、小さな声で話しはじめた。
「僕ね、前の隊商にいたんだ。お父さんと一緒に。お父さんは護衛だった」
……なるほど。
「みんな、護衛は逃げたって言うんだ。でも、お父さんは逃げる人じゃない。ザイドさんは、お父さんのこと、何も話してくれないんだ」
少年の手が、私の毛をぎゅっと握る。
「本当のことが知りたいんだ。ザイドさんのことが、嫌いなわけじゃないんだけど」
私は何もできず、ただ少年の膝の上で温かくなっていた。
背後で、足音がした。
振り返ると、ザイドが立っていた。いつからいたのだろう。暗くて表情は読めない。
「……ナジム、寝ろ」
「はい」
少年が毛布にもぐりこむ。ザイドは焚き火の前に座り、私を一瞥しただけで何も言わなかった。
そして、遠い砂丘を見つめたまま、低く呟いた。
「……来るぞ」
「先輩、駱駝に全頭嫌われたんですか?」
「全頭ね。順番に、きれいにそっぽを向かれた」
「それって、先輩の格が高すぎて……」
「いや、たぶん単に、犬くさかったんだと思う」




