3-2「雲海は静かに近づく」
朝の風は、少し冷たかった。
風車小屋の屋根の上で、フィルは目を閉じ、両手を広げていた。
「風よ、右へ……右、右、そっちじゃなくてー!」
緑の髪がばさばさと暴れ、少女は風に押されて、屋根の上を転がった。
「今日も、だめだった……」
「落ち込むには、まだ早いですよ」
私は、フィルの頭の上からふわりと飛び上がった。
妖精の羽は、思った以上に風に敏感だった。空気の流れが、薄い水の筋のように見える。
「風は、あの煙突の陰で渦を巻いています。右から入ろうとするから、押し返されるのです。少し、左下から」
「左下……」
フィルが手を動かす。
ふっと、風が優しく向きを変えた。緑の髪が、きれいに流れる。
「できた! できたよ、ポメリィ!」
少女は飛び跳ねて喜んだ。喜びすぎて、また屋根から転げ落ちそうになった。慌てて髪を掴んで引き戻す。小さな体で少女を支えるのは、なかなかの重労働だった。
*
フィルの夢は、城の「風詠み」になることだった。
都市全体の風を整え、浮島を安定させる、風の精霊の最高の役職。そのために、年に一度の試験に挑んでいるのだという。
「風渡りの祭の日にね、試験があるの。合格したら、女王様に拝謁できるんだよ」
「女王様に?」
「うん。女王様はね、普段は誰にもお会いにならないの。この十年くらい、ずっと」
……十年。
フィルは何気なく言ったが、私はその言葉を覚えておくことにした。
*
昼は、街を案内してもらった。
市場には、光る果実や、水の中で歌う貝殻が並んでいる。
鍛冶屋の前では、火の精霊の老人が、赤く燃える鉄を叩いていた。名をボルグという。ひげが炎のように揺れている。
「ほう、妖精か。珍しいな」
ボルグは私をじろりと見て、鼻を鳴らした。
「だが、まあ、悪い気配じゃねえ」
「ありがとうございます」
「昔はな、この工房の窓から、夜になると星が見えたんだ。今は、窓の外はずっと雲だ」
老人は、鉄を水に沈めた。じゅう、と音がして、白い湯気が上がる。
「……最近、嫌な予感がしてならん。見張り台の目盛りを見てみな」
*
島の端にある見張り台には、石の柱が立っていた。柱には、雲海の高さを示す目盛りが刻まれ、年ごとに印がつけられている。
印は、きれいに並んでいた。何百年分も、同じ高さに。
けれど、ここ十年の印だけが、ひとつずつ下へずれている。
「みんな、見て見ぬふりをしてるの」
フィルが、小さく言った。
「怖いから。女王様がいらっしゃるから大丈夫だって、思いたいの」
*
夕方、図書館へ寄った。
水の精霊の司書、ミナは、静かに本を運びながら、黙って私たちを迎えてくれた。
「島の沈下を、調べているのですか」
フィルが頷くと、ミナは奥の書庫から、古い帳面を持ってきた。
「記録によれば、都市の高度は、結界ができてから三百年、ほとんど変わっていません。変わり始めたのは、十年前。女王様が、表にお出になることをやめた年と、ちょうど重なります」
ミナは、私をじっと見た。
「偶然だと、思いますか」
私は答えなかった。ただ、図書館の窓から、遠くの白い城を見上げた。
結界の核は、あの城のどこかにある。そんな気がした。そしてその核は、都市を守るだけでなく、何かを少しずつ奪っているようにも思えた。
「先輩、精霊の街って、天使にとっては親戚みたいなものですか?」
「遠い親戚くらいかな。ただ、向こうは私のことを知らないからね」
「それはそれで、気まずくないですか」
「大丈夫。妖精のふりは、得意だから」




