1-3「陽だまりの別れ」
その日から、老人の家には人が来るようになった。
隣のおかみさんが煮物を持ってくる。畑仕事を手伝いに、若者が顔を出す。老人は相変わらず無愛想で、「頼んでない」と言いながら、湯を沸かして茶を出していた。
私は犬の姿で、土間の隅からそれを眺めていた。
――そろそろ、だな。
降り立った場所に長く留まらないこと。それが旅をするということだ。留まれば、離れるのがつらくなる。それは天使でも変わらない。
*
出立の朝、私は銀の髪の女の姿で、老人の前に立った。
「お世話になりました。今日、発ちます」
「……そうかい」
老人は湯呑みを見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「なあ、あんた。一つだけ頼みがある。あの犬を、置いていってはくれんか」
土間に、朝の光が細く差していた。
私なら、できる。
老人の願いを叶えることも、胸の穴を一瞬で埋めることも、翼の力を使えば難しくない。けれど、それは違う。人の寂しさを、上から塞いではいけない。それが、私が自分に課した、たった一つの決まりだった。
「ごめんなさい。あの子は、私の大切な家族ですから」
「……そうだな。悪かった。忘れてくれ」
老人は、少しだけ笑った。
私は深く頭を下げて、家を出た。
*
門を出て、老人の目の届かない角を曲がったところで、私は犬に戻った。
しばらくして、老人がゆっくりと門まで出てきた。道の真ん中に白い犬がちょこんと座っていて、飼い主の姿は、もうない。
「……なんだ。主人は先に行っちまったのか。薄情なやつだ」
老人は苦笑いをして、しゃがみこんだ。
私は、ごつごつした指を、ぺろりと一度だけ舐めた。
「行きな。主人が待ってる」
老人の声は、少し湿っていた。
私はきゃんと一声鳴いて、振り返らずに走った。
丘の上でようやく立ち止まって、そっと後ろを見る。
村の方から、小さな男の子が、何かを抱えて老人の家へ駆けていくのが見えた。
「じいちゃん! うちの犬が子どもを産んだんだ! 一匹もらってくれない?」
その声が、風に乗って聞こえた。
老人は目を丸くして、それから、ゆっくりと腕を伸ばした。
私は何もしていない。
人の寂しさを埋めるのは、天使の力ではなかった。いつも隣の家の煮物のような、ささやかなものだった。
「先輩、その仔犬って……先輩が仕込んだんですよね?」
「何もしていないよ。本当に」
「えー、信じられません」
「失礼だな。天使は嘘をつかない。……たまに、演技はするけどね」




