1-2「名もなき石の祈り」
老人は、不器用だった。
「日が暮れる。連れが見つかるまで、うちに泊まっていきな。……犬も、まあ、戻ってくるだろう」
目をそらしながらそう言って、藁を詰めた寝床まで用意してくれた。
こうして私は、老人の家に居候することになった。
老人の畑は、村はずれの小さな丘にあった。
朝は犬として畑を駆け回り、蝶を追いかけるふりをする。昼は銀の髪の女となって、「老人の家に泊めてもらっている旅の者」として村へ出る。二つの姿を行き来するのは、思ったより忙しい。
「ああ、あの偏屈じいさんのところの」
井戸端の女たちは、私を見るなり声をひそめた。
「悪い人じゃないんだよ。三年前にムギを亡くしてからさ。あ、犬ね。ずっと一緒だった子で、それからは誰とも話さなくなっちまって」
「そうでしたか」
私は桶を受け取りながら、静かに頷いた。
「でも私は、あの方に感謝しています。連れの犬を拾ってくださったのですもの」
女たちは顔を見合わせ、それから少しだけ笑った。
その日の夕方には、村の誰かが老人の家の戸口に、野菜を置いていった。老人は不機嫌そうに受け取って、誰にも見えないところで、ほんの少し口元を緩めた。
*
「お姉ちゃん、じいちゃんちの犬、見たことある?」
数日目の昼、村の小さな男の子が、私の裾を引いた。
「ふわふわで白いんでしょ。触りたいなあ」
「ええ、とてもふわふわです。夕方なら、きっと会えますよ」
「やった! あのね、うちのクロも、もうすぐ赤ちゃん産むんだ。お腹がこんなに大きいの」
男の子は両手で、大きな丸を作ってみせた。私は笑って、その手の大きさを覚えておいた。
夕方、犬に戻って門の前に座っていると、男の子は本当に駆けてきた。小さな手がおそるおそる私の背中を撫でる。
「わあ、あったかい!」
ぎゅっと抱きしめられて、私は少しだけ困った。上位存在としての威厳が、いま確実に失われている。
けれど、悪い気はしなかった。
*
日が沈む前に、私は丘を登った。
裏の木の下に、老人が座っていた。足元には、名前も刻まれていない小さな石がひとつ。
「……ここにな、ムギがいるんだ」
私は黙って、その隣に座った。風が、草を撫でていく。
「最近な、村のやつらがよく来る。うるさくてかなわん。……だが、静かすぎるのも、堪えるもんだな」
老人は、私の頭にそっと手を置いた。
「お前、少しだけ似てるよ。毛は白いし、うるさいけどな」
鼻先を老人の手に押し当てる。ごつごつした指は、思ったよりも温かかった。
人は、失ったものの形を、別の誰かに探してしまう。私は、それを責める気にはなれなかった。
「……先輩、そのときもずっと犬の姿だったんですか?」
「半分くらいはね。人間体は肩がこるから」
「え、天使でも肩はこるんですか」
「こるよ。しっかりね」




