1-1「朝露の降臨」
これは、ずっと後になってから語られる話だ。
……けれど、その日の私は、そんなことは知らなかった。
最初に感じたのは、湿った土のにおいだった。
次に、やけに近い地面。四本の脚。ふわふわの尻尾。
「……ふむ」
声を出したつもりが、口からこぼれたのは「きゃん」という高い鳴き声だった。
ずいぶん小さな姿を選んだものだ、と他人事のように思う。降りる直前の記憶はどこか曖昧で、なぜこの姿なのかも思い出せない。ただ、白い毛並みが朝露で濡れているのが、妙に気に入らなかった。
見上げると、雲の切れ間から朝日が差していた。空の色は、天界のそれとは少し違う。もっと濃くて、少し騒がしい。
――ここが、世界か。
胸の奥が、ほんの少しだけ弾んだ。
そのとき、遠い街道を、荷車を引いた老人がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「おや、こんなところに犬かい。迷子か?」
迷子ではない。……たぶん。
私は精一杯、威厳をこめて胸を張ってみた。ポメラニアンの胸の張り方としては、きっと可愛いだけだったと思う。
「ずぶ濡れじゃないか。ほれ、乗りな。村まで連れてってやる」
老人はひょいと私を抱き上げ、荷車の毛布の上に降ろした。荷台には、芋と、古びた毛布と、干した草の束。上位存在としては、ここで暴れるわけにはいかない。私はおとなしく座った。
がたごと、がたごと。老いたロバの足音に合わせて、世界が揺れる。
道端の草の匂い、遠くの鳥の声、土を踏む車輪の音。降り立ったばかりの私には、すべてが新しかった。
「お前、どこから来た。首輪もないし、飼い主はおらんのか」
老人は前を向いたまま、時々話しかけてきた。私が首をかしげると、「分からんか」と笑う。それだけのやりとりが、不思議と心地よかった。
日が傾くころ、老人の家に着いた。
狭い土間の隅で、老人は自分の食事を分けてくれた。冷めかけたスープに、固いパン。私は湯気の向こうで、黙って耳を傾けていた。
「うちにもな、昔、小さい犬がいたんだよ。……まあ、ずいぶん前の話だ」
老人は誰に言うでもなく呟いて、薪を取りに外へ出ていった。
戸が閉まる。
この人には、鳴き声ではなく、言葉で礼を言いたい。そう思った。
私は毛布の上でそっと翼を広げた。犬の背に、誰の目にも見えない光が走る。白い毛が銀の糸にほどけ、四本の脚が伸びていく。
*
薪を抱えて戻った老人は、土間に座る私を見て、立ち尽くした。
「あんた、いつの間に……。ここにいた犬は」
「あの子は、私の連れです」
私は穏やかに微笑んで、頭を下げた。
「道ではぐれてしまって、ずっと探していました。拾ってくださったのですね。ありがとうございます」
老人は首をひねった。理屈は合わない。けれど、静かな微笑みを向けられると、問い詰める言葉が出てこないらしい。
「……そうかい。で、その犬は今どこに」
「少し散歩に出ています。すぐ戻りますよ」
老人が薪をくべている間に、私はそっと裏口から出て、翼を一振りした。銀の髪が白い毛にほどけ、背が地面に近づく。
戸の前で「きゃん」と鳴いてみせると、老人は目を丸くして、それから少し嬉しそうに笑った。
「……おかえり」
その言葉が、なぜか胸の奥にしみた。
「先輩、最初からそんな言い訳で通ったんですか?」
「通ったよ。人は、信じたいほうを信じるものだからね」
「……それ、ちょっとずるくないですか」
「演技力と言ってほしいな」




