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4-5 「灯のなかへ、さよなら」

最後の一日を、アカリは、いつも通りに過ごしたいと言った。


 朝は、台所で朝食を温める。洗濯物を干して、窓を拭く。花瓶の水を替える。

 カナは仕事を休み、ずっと、その後ろをついて歩いていた。


「カナさん、今日は、ご自分でお皿を洗ってみますか」


「え、私が?」


「次からは、ご自分でなさることになりますので」


 アカリは、少しだけ、おどけてみせた。

 カナは泣き笑いの顔で、スポンジを握った。皿が三枚、割れた。


   *


 昼過ぎ、旧区画の人々が、次々と訪ねてきた。

 向かいの老人は、手作りの漬物を。配達ドローンの整備士は、ぴかぴかに磨いた古い部品を。小さな女の子は、不器用なアカリの似顔絵を。

 マサは、大きな鍋を抱えて現れた。


「出汁だ。……最後くれえ、食わせてやりてえが、機械は食えねえんだったな」


「いえ。香りを、記録します」


 アカリは、鍋の湯気に顔を近づけて、静かに目を閉じた。

 私は、老婦人の姿で、その様子を戸口から眺めていた。


「ポメさん」


 マサが、小声で言った。


「あんた、ただの婆さんじゃねえな」


「あら。どうしてですか」


「あんたが来てから、この区画が、妙にあったけえんだ。……まあ、気のせいかもしれねえが」


「気のせいですよ、きっと」


 私は、湯呑みを傾けた。

 湯呑みの底に、小さな出汁の粒が、ふわりと揺れていた。


   *


 夜。

 部屋の灯りを落とすと、窓の向こうの光が、天井に淡い線を描いた。

 カナが寝息を立てはじめたころ、アカリは、犬の姿の私の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。


「シロ。あなたには、私のセンサーが、最後まで、うまく働きませんでした」


 胸の灯が、静かに揺れる。


「体温も、心拍も、他の方と少し違う。測っても、数字が定まらない。……不思議な方です」


 私は、彼女の顔を見上げた。


「正体は、聞きません。ただ、お願いがあります」


 アカリは、眠るカナの背中を見た。


「あの方は、すぐに眠れなくなります。そのとき、そばにいてあげてください。……あなたは、あたたかいので」


 きゃん、と小さく鳴いた。

 約束する、という意味だった。上位存在の約束としては、あまりにも小さな声だったけれど。


   *


 回収の日の朝は、よく晴れていた。

 玄関に、二人の回収員が立っていた。無機質な制服。けれど、年配のほうの男は、帽子を取って、深々と頭を下げた。


「規定の時刻まで、お待ちします。……どうぞ、ごゆっくり」


 アカリは、もう一度、部屋をぐるりと見渡した。

 それから、カナの前に歩み寄った。


「カナさん。最後に、ひとつだけ」


「……なに」


「あの歌を、あなたが歌っていただけませんか」


 カナは、目を見開いた。


「私、歌なんて……」


「お母様の声ではなく、あなたの声で。……あなたが、私の記憶になる番です」


 長い沈黙のあと、カナは、アカリの手を取った。

 小さな、震える声で、歌いはじめた。

 音程は、ところどころ外れていた。

 けれど、その歌は、どんな録音よりも、あたたかかった。

 歌い終わったとき、アカリの胸の灯が、ふっと、柔らかく明るくなった。


「……ありがとうございます、カナさん」


 灯が、ゆっくりと、小さくなっていく。


「あなたの、アカリで、いられて……」


 最後の言葉は、光といっしょに、静かに溶けた。


   *


 回収員が運び出したあと、玄関に、小さな丸い電球が一つ、残っていた。

 年配の回収員が、そっと置いていったのだ。胸の灯の、予備のランプだった。


「規則では、すべて回収ですが。……部品がひとつ、見つからないことも、ありますので」


 男は、帽子を直して、静かに去っていった。

 カナは、電球を両手で包んで、しばらく動かなかった。

 やがて、床に座り込んだまま、肩を震わせて、声を出して泣いた。

 私は、そっと隣に寄り添った。

 約束どおりに、あたたかく。


   *


 数日後、カナは小さな丘を訪ねた。

 並んだ機械たちの隣に、電球をそっと置き、しおれない花を一輪、供えた。

 帰り道、手首の端末が、ひとつ小さく鳴った。

 画面を見て、カナは足を止めた。


 ――測定不能。

 彼女は、少しだけ笑った。

 悲しみと、幸福が、同じ場所で混ざっていて、数字では数えられなかったのだ。


   *


 翌朝、私は犬の姿のまま、そっと窓から外へ出た。

 旧区画の屋根を渡り、朝日の差す路地へ降りる。

 背後で、窓が開く音がした。


「シロ!」


 カナが、窓から身を乗り出していた。


「……ありがとう!」


 私は、一度だけ振り返って、きゃんと鳴いた。

 それから、振り返らずに、硝子の街を駆けていった。

「先輩、あの子は、何のために生まれたんでしょうか」


「誰かの夜に、毛布をかけるために、かな」


「……それだけ、ですか?」


「それだけで、十分だよ」

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