5-1「幌馬車は星を積んで」
降り立った先は、夕暮れの草原だった。
金色の穂が、風にゆらゆらと揺れている。遠くの空に、薄い月が白く浮かんでいた。
私は、白いふわふわの犬の姿で、道端にぺたんと座っていた。
……おなかが、すいた。
上位存在というのは、本来、食事を必要としない。けれど、犬の体を選ぶと、胃袋まで律儀についてくるのだ。今回の降り立ちの反省点である。
そのとき、遠くから、鈴の音と車輪の軋む音が聞こえてきた。
*
夕焼けの街道を、三台の幌馬車が連なってやってくる。
車体には、色とりどりの布と、月の絵。先頭の馬車の側面に、大きく書かれた文字があった。
――月影座。
「あっ、犬! 座長、犬がいる!」
先頭の馬車から、少女が飛び降りてきた。十二歳くらいだろうか。ぼさぼさの栗色の髪に、鮮やかな縞模様のスカート。
「ミミ、拾うなと何度言ったら――って、また犬か!」
続いて顔を出したのは、でっぷりとした体格の中年男だった。立派な口髭、よれよれの派手な上着。座長のダリオ。
「飼えん! 食い扶持が増える! うちには、犬に食わせる余裕なんぞ、これっぽっちも――」
「看板犬にしよう!」
ミミが、胸を張った。
「うちの座、動物がいないでしょ。この子、ふわふわだし、絶対ウケるよ!」
「ウケるかどうかは、芸ができるかどうかだ」
別の馬車から、明るい声が割り込んだ。
派手な赤い帽子に、白塗りの顔。道化師のトトだった。
「よーし、犬くん。お手!」
*
トトが、右手を差し出した。
私は、考えた。
ここで、すんなり「お手」をやってのけるのは、簡単だ。けれど、それでは「普通の賢い犬」で終わってしまう。この一座に、旅に連れていってもらうには、それなりの売り込みが必要だ。
私は、おもむろに、トトの手を――無視して、顔を舐めた。
「うわっ! ちょ、ちょっと待て! お手だってば!」
「あはは!」
ミミが、お腹を抱えて笑い出した。
次は「おかわり」。私は、わざと、反対の手を出す。
次は「ちんちん」。立ち上がって、その場でくるりと一回転、そのまま前につんのめった。
どっと、笑い声が起こった。座長まで、肩を揺らしている。
「こ、こいつ……! 間違えてるのに、全部、わざとらしく見えねえ……!」
これは、演技の基本だ。
完璧にやってみせるより、少しだけ失敗したほうが、愛される。
「……採用だ」
座長が、観念したように呟いた。
「ただし、餌代は、お前の給金から引く!」
「えー! 座長、犬に給金は出ないよ!」
「冗談だ、馬鹿者!」
*
その夜、一座は街道脇の空き地で、野営をした。
焚き火を囲んで、粗末な麦粥をすする。私の皿には、特別に、干し肉のかけらが入っていた。
座員は、全部で七人ほど。
一番目を引いたのは、焚き火の向こうに座る女性だった。
栗色の長い髪、柔らかな目元。看板女優のセレナ。ただ座っているだけで、場の空気が凛と引き締まる。
けれど、彼女は、ほとんど口を開かなかった。
粥を食べる合間に、小さく咳払いをして、蜂蜜を溶かしたお湯を、そっと口に運んでいる。
「セレナ姉さん、今日も、のど、調子悪いの?」
ミミが、心配そうに尋ねた。
「ううん、大丈夫。……少し、乾燥しているだけ」
セレナは、微笑んだ。声は、かすかに掠れていた。
トトが、大げさな身振りで割り込んだ。
「そうそう! のどには、蜂蜜と、愛と、僕のギャグが効くんだよ!」
「……それは、むしろ悪化しそうだな」
座長が、ぼそりと突っ込んだ。笑い声が、夜の草原に広がる。
けれど、私は見ていた。座長が、膝の上の帳簿を、何度も何度も開いては、ため息をついていることを。
*
夜更け、私はミミの毛布の中に潜り込んだ。
幌馬車の天井に、小さな星の飾りがぶら下がっている。
「ねえ、シロ……じゃなくて、名前、決めなきゃだね」
ミミが、囁いた。
「あのね、私ね、孤児だったの。ここに拾われるまで」
きゃん、と小さく鳴いて、続きを促した。
「座長が、最初に言ったの。『飯は食わせる。その代わり、笑え』って。それから、ずっとここにいる。……月影座は、私の家なんだ」
少女の手が、私の背中を、ゆっくりと撫でた。
「でもね、座長、最近ずっと、夜に帳簿ばっかり見てるの。……もしかしたら、ね」
その先は、聞こえなかった。
ミミは、静かな寝息を立てはじめていた。
*
翌朝、丘の上から、街が見えた。
城壁に囲まれた、ほどよく賑わった城下町。その門に、色とりどりの旗が揺れている。
「今日からの興行が、勝負だ」
座長が、帽子の縁を握りしめた。
「ここで客が入らなけりゃ……月影座は、店じまいだ」
誰も、何も言わなかった。
風が、幌馬車の布を、ひらひらと揺らした。
私は、荷台の上で、そっと背筋を伸ばした。
ふわふわの尻尾が、ひとつ、揺れる。
……やるしかない。看板犬として、全力で。
「先輩、犬芸、完璧にできたのに、わざと間違えたんですか?」
「うん。間違えるのは、技術なんだ」
「そんな技術、聞いたことないです」
「覚えておくといい。完璧な人より、少し抜けた人のほうが、愛されるから」




