4-4「記憶は光の川を渡る」
回収日まで、あと二日。
朝、カナは玄関に座り込んだまま、長い間、靴を履かなかった。
「……行こう。移行センター」
「はい」
アカリは、静かに頷いた。
私は、尻尾を振ってついていった。センターの入口には「ペット同伴可」の札があった。生体の犬など、この時代にはほとんどいないのに、規則の欄には、律儀に書かれている。
*
移行センターは、真っ白だった。
壁も床も、光でできているような空間で、案内AIが、丁寧に頭を下げた。
「ようこそ。HS―七の記憶の移行を担当します。まず、現在のデータを可視化しましょう」
部屋の中央に、光の川が流れはじめた。
それは、アカリの記憶だった。
一粒ごとに色が違う。笑う幼いカナ。朝の台所の湯気。雨の日の傘。誕生日の灯り。数えきれない光の粒が、静かに、ゆるやかに流れていく。
「……きれい」
カナが、小さく呟いた。私も、思わず見とれていた。
天界のどんな星々と並べても、これは少しも劣らない光だった。
*
「それでは、最適化の対象を選定します」
案内AIが、淡々と言った。
「新型への移行では、幸福指数に悪影響を与える記憶は、整理されます。対象候補は、四千八百十二件です」
光の川の一部が、灰色に染まった。
「たとえば、これです。母親の最期の夜。泣き声と、沈黙。幸福指数への影響、マイナス。削除を推奨します」
「ちょっと待って」
「それから、これ。音声データ。子守唄。喪失に関連する音声のため、削除を推奨します」
カナが、立ち上がった。
「それは、それだけは……!」
「推奨は標準設定です。個別の保持は、新型の規格外のため、お断りする場合があります」
悪意のない、平らな声。この街の「幸福」は、そういうものなのだ。
私は、床の上で、毛を逆立てた。
翼を広げれば、この装置の中身を一瞬で書き換えられる。灰色の記憶を、すべて光に戻すことも、できる。
けれど。
それは、アカリのためなのか。それとも、私が、この結末を見たくないだけなのか。
*
「カナさん」
アカリが、静かに口を開いた。
「ひとつ、お願いがあります」
「……なに」
「私に、選ばせていただけませんか」
カナは、はっと目を見開いた。
「私は、これまで、あなたが決めた通りに動いてきました。それで、幸せでした。ですが、最後くらいは、自分で決めたいのです」
胸の灯が、ゆっくりと明るくなる。
「私は、新型には、移りません」
「……アカリ」
「最適化された私は、もう、私ではありません。あの子守唄を歌えない私は、あなたの知っているアカリではないのです。……私は、私のまま、終わりたい」
カナの目から、涙がこぼれ落ちた。
「ただ、ひとつだけ。この記憶を、保管してください。コピーではなく、記録として。いつか、あなたが思い出したくなったとき、光の川を眺められるように」
カナは、声を出せなかった。
ただ、何度も、何度も、頷いた。
私は、そっとアカリの足元へ寄り、金属の脚に頭を押しつけた。
アカリは屈んで、私の背中を撫でた。
「シロも、そう思いますか」
きゃん、と小さく鳴いた。
それでいい。私は、そう思った。
*
光の川は、静かに流れ続けていた。
一粒ずつ、色を変えながら。ここにいた誰かの時間を、ひとつずつ、数えるように。
「先輩、本当に、何もしなかったんですか?」
「したよ。足に、頭を押しつけた」
「それ、何かに入るんですか?」
「入るよ。……あれが、一番、効いたんだ」




