4-2「数えられない幸福」
朝の旧区画は、機械の目覚めの音で始まる。
配達ドローンが窓の外をかすめ、自動掃除機が路地を滑っていく。アカリは台所で朝食を温めながら、こちらをちらりと見た。
「あなたに、仮の名前をつけてもいいでしょうか。……シロ、というのは、安直でしょうか」
きゃん、と鳴いてみる。安直だけれど、悪くない。
「カナさんは、もう出勤されました。私は買い出しに行きますので、留守番をお願いします」
アカリが玄関を出て、足音が遠ざかるのを確かめる。
私は部屋の隅で、そっと翼を広げた。
白い毛がほどけ、背が伸び、肩が丸くなる。小柄で、背中の少し曲がった老婦人。白い髪を小さくまとめ、藤色の羽織を肩にかけて、杖をひとつ。
今日は、この姿で街を見てみよう。
*
旧区画の広場には、白い円柱が立っていた。「幸福ステーション」。手首の端末と連動して、その人の今の幸福指数を測って表示する。
並んでいる人々の顔は、どこか浮かない。数字が七十を下回ると、「要注意」の赤い灯がつくらしい。
「おばあちゃん、測らないの?」
隣の小さな女の子が、不思議そうに私を見上げた。
「ふふ、ばあばは、機械が苦手でね」
そう言いながら、円柱にそっと手を触れてみた。
ピ、と小さな音が鳴る。画面に出たのは、数字ではなく、一行の文字だった。
――測定不能。
「あれ? 壊れちゃった?」
女の子が首をかしげる。円柱の係員AIが、ためらうような電子音で言った。
「申し訳ありません。この装置では、あなたの幸福を数えられないようです。故障と思われます。どうぞ、お通りください」
私は、苦笑した。
数えられない幸福。上位存在というのは、時々、こういう不便がある。
*
広場の隅に、小さな食堂があった。
「たまり」と書かれた古い看板。扉を開けると、出汁の匂いがした。
「いらっしゃい。……見ない顔だな。新入りか」
カウンターの向こうで、がっしりした体格の男が、鍋をかき混ぜていた。店主のマサ。前腕に、古い工具の跡が残っている。
「ええ。ポメと申します。アカリさんの知り合いで」
「アカリ? ああ、HS―七のか」
マサは手を止めて、少しだけ表情を和らげた。
「あいつはな、あそこのカナ嬢ちゃんの母親が買った機械なんだ。嬢ちゃんが五つのときに、母親は病気で逝っちまった。それからは、アカリが親代わりだ」
湯気の向こうで、マサは肩をすくめた。
「俺も昔、整備士をやっててな。アカリは何度も直した。……だがな、HS―七の部品はもう、どこの工場でも作ってねえ」
彼は、カウンターに温かいお茶を置いた。
「あの嬢ちゃんにとって、アカリは機械じゃねえ。家族だ。それが分かってるから、俺は言えねえんだよ」
私は、湯呑みを両手で包んだ。熱かった。
窓の外では、赤く染まった夕日が、旧区画の屋根を照らしていた。
*
夕方、私は人目のない路地で犬に戻り、窓から部屋へ滑り込んだ。……ぎりぎり、間に合った。
間もなく、アカリが買い物から戻り、いつもの穏やかな夕食の準備を始めた。
帰宅したカナは、玄関に座り込んで、手首の端末を見つめていた。
「……幸福指数、六十一。要注意、だって」
「カナさん。まずは、お茶を」
「ありがとう。……ねえ、アカリ。最近、定期診断のログを見るのをサボってたんだけど」
アカリの動きが、ぴたりと止まった。
カナが、画面を開く。診断結果の一覧が、静かな部屋に浮かんだ。
その最後の行に、小さな文字があった。
〈HS―七 サポート終了に伴う停止予定日:二十八日後〉
「……アカリ。これ、何?」
アカリは、答えなかった。胸の灯だけが、静かに揺れていた。
「先輩、幸福を数えるなんて、ちょっと不気味ですね」
「便利なんだと思うよ。……数えられないものほど、大事なんだけどね」
「先輩の幸福は、測れなかったんですよね」
「うん。壊れてるって言われた」




