4-1「硝子の空に降りる」
今までは中世感のある世界観でしたが、今回は未来的な世界観の舞台にしてもらいました。
今回は、少し先の時代を選んでみた。
時間を選べるのは、上位存在の数少ない役得だ。過去でも未来でも、気の向くままに降りられる。ただし、その分、迷う。私はしばらく雲の上で悩んで、結局、一番賑やかそうな時代を指で押した。
雨の匂いがした。
目を開けると、そこは硝子の街だった。
空には透明な軌道が幾筋も走り、光の列車が音もなく滑っていく。ビルの壁面には、巨大な広告が流れていた。人工の雨が、街灯の光を細く砕いている。
近未来都市ルミナ。人々が「失敗のない街」と呼ぶ場所。
私は、白いふわふわの犬の姿で、路地裏のゴミ箱の陰に座っていた。
毛が、ぐっしょりと濡れている。……またこれだ。
*
「風邪を召されます」
頭上に、傘が差し出された。
見上げると、丸い頭の小さなロボットが立っていた。薄いクリーム色の胴体、古びた関節、胸の小さな灯。新しい街の光の中で、そこだけ時間が止まったようだった。
「型番不明のペットロボット……ではありませんね。体温と心拍があります」
ロボットは、不思議そうに首をかしげた。
「生体の犬。この都市では、ほとんど絶滅した種類のはずです。……お名前は、ありますか?」
きゃん、と鳴いてみる。ロボットの胸の灯が、ぽっと明るくなった。
「失礼しました。私は、アカリです。家庭用支援ロボット、型番HS―七。……拾いますね」
アカリは、私をそっと抱え上げた。思ったより、ずっと優しい手つきだった。
*
アカリの家は、旧区画の古い集合住宅の、四階だった。
窓の外は新しい都市の光、部屋の中は古い家具と、積み上げられた書類の山。
「ただいま……あー、疲れた」
玄関から、くたびれた声が入ってきた。
二十代後半の女性が、鞄を床に落とした。目の下に薄い隈。白衣の襟が、片方だけ立っている。
「おかえりなさい、カナさん。お風呂はもう沸いています。夕食は、温めるだけです」
「ありがとう、アカリ……って、また何か拾ってきたの?」
カナは、アカリの腕の中の私を見て、目を丸くした。
「え、犬? ……本物?」
「生体反応があります。雨で濡れていたので、保護しました」
「うわ、毛がふわふわ……」
カナの指が、おそるおそる私の頭に触れた。次の瞬間、彼女の表情が、ふにゃりと緩んだ。
「……あったかい」
その一言だけで、今日の降り立ちが悪くなかったことを知った。
*
カナは、都市の研究機関で働く技術者だった。
食事の最中にも、手首の端末が何度も震える。
「幸福指数」という数字が表示されるたび、彼女は小さくため息をついた。
「また、下がってる。……仕事、減らさなきゃいけないのにね」
「無理は、いけません」
アカリが静かに言った。
「睡眠をとってください、カナさん」
「はいはい」
数分後、カナは机に突っ伏して寝息を立てていた。
アカリは、毛布を持ってきて、そっと彼女の肩にかけた。その動作は、何度も何度も繰り返してきた者のものだった。
*
夜更け。
部屋の灯りが落ちて、窓の向こうの光だけが、アカリの横顔を照らしていた。
アカリは、傍らに座る私に、ゆっくりと話しかけた。
「……あなたは、不思議な方ですね。他の生き物は、私の言葉に、なかなか答えてくれません」
私は、首をかしげた。
「ひとつ、聞いていただけますか。誰にも、言えないことなのです」
きゃん、と小さく鳴く。聞いている、という合図のつもりだった。
「私は、来月、停止します。型番HS―七の部品供給が、終了するのです。修理は、もう、できません」
窓の外で、光の列車が、静かに通り過ぎていった。
「マスターには、まだ伝えていません。……あの方は、いつも疲れていらっしゃるので」
アカリの胸の灯が、ふっと小さくなった。
私は、何も言えなかった。
ただ、そっと身を寄せた。冷たい金属の脚に、ふわふわの毛が触れた。
「……あたたかい、ですね」
機械の声が、少しだけ、かすれた。
「先輩、ロボットって、天使の仲間なんですか?」
「それは違うよ。ただ、あの子は、人間より、ずっと優しかった」
「先輩、ロボットにも、そんなこと言うんですね」
「優しい子は、誰でも、えらいよ」




