3-7「約束は丘に降りる」
夜明け前、私は犬の姿で、見張り台の石柱の前に座っていた。
目盛りの印は、もう雲海に届きそうなほど下がっている。
足音が近づいてきた。振り返ると、緑の髪の少女が、毛布にくるまって立っていた。
「やっぱり、ここにいた」
フィルは、私の隣にぺたんと座った。
「ねえ、ふわふわさん。昨日、橋の上を走っていくとき、ポメリィの羽と同じ光が、ちらっと見えたの」
……見られていた。
しばらく、風の音だけが流れた。
私は小さく息を吐いて、翼を広げた。光がほどけ、体が縮み、羽が背中に生える。
「……ポメリィは、私です。黙っていて、ごめんなさい」
フィルは目を丸くして、それから、ぷっと吹き出した。
「やっぱり。ずっと、ふわふわだなあって思ってたの」
「……そこで、気づいたのですか」
「うん。髪も、毛も、同じふわふわだった」
髪質で、バレた。譲れないものは、命取りになるらしい。
フィルは笑いながら、膝を抱えた。
「ねえ、ポメリィ。私、怖いの。結界を解くのも、解かないのも」
「怖いままで、いいのです」
私は、少女の肩に座った。
「怖いまま、選んでいいのです。怖くない選択なんて、きっとどこにもありませんから」
*
風渡りの鐘が、朝の空に鳴り響いた。
広場には、都市の全員が集まっていた。女王が、台の上から問いかける。
「皆さんの答えを、聞かせてください」
最初に前へ出たのは、杖をついた老いた風の精霊だった。
「……わしは、反対じゃ。今でも、人間が怖い」
広場が、ざわついた。老人は、しわだらけの顔で空を見上げた。
「だが、孫に星を見せてやれんのは、もっと嫌じゃ。……結界を解くことに、賛成する」
次に、ミナが。ボルグが。オルテが、震える手で。若い精霊たちが、次々と手を挙げていく。
フィルは、一番最後に、まっすぐ手を挙げた。
「私は、外を見たい。怖いけど、見たい」
鐘が、もう一度鳴った。
女王は、静かに頷いた。
「では、そうしましょう」
*
地下の核の間で、女王が枯れかけた若木に、そっと手を添えた。
「カイ。……約束を、果たしに行きましょう」
光の鎖が、一本ずつ解けていく。
都市を覆っていた虹色の膜が、ゆっくりと薄れ、朝の光に溶けた。
島が、ぐらりと揺れた。
すかさず、風の精霊たちが一斉に風を送った。ボルグが炎の上昇気流で下から押し上げ、ミナの霧が重みを均す。フィルの風が、そのすべてを包んだ。
私は、広場の端で見守っていた。口を出す必要は、もうなかった。
島は、落ちなかった。
ゆっくり、ゆっくりと雲の海を抜けて、降りていく。
雲の下から、緑の山並みが現れた。朝日に照らされた、一面の草原だった。
島は、山の頂に、そっと着地した。小さな振動が、足の裏に伝わった。
歓声が、風にのって空まで届いた。
*
若木は、新しい土に植えられた。
女王が両手で土をかけ終えたとき、枯れかけた枝の先に、小さな白い花がひとつだけ咲いた。
「……ああ」
女王の目から、涙がこぼれた。
「すぐに追いつくと言ったのに。三百年、かかりましたね」
その背中は、もう透けていなかった。朝日の中で、はっきりとした影を落としていた。
*
私は、静かに島を離れる準備をした。
人気のない丘の上で、犬の姿に戻る。ふわふわの尻尾が、風に揺れた。
背後から、足音がした。
「やっぱり、行っちゃうんだね」
フィルだった。緑の髪が、風にさらさらと流れている。
「私ね、風詠みになるの。いつか、世界中の風を詠む。そのとき、ふわふわさんにも、きっと会えるから」
少女は、私の頭を、ぎゅっと抱きしめた。
きゃん、と鳴いて、私は少女の頬を、ぺろりと舐めた。
別れの言葉は、いらなかった。
私は走り出した。振り返らなかった。
丘を下りる途中で、一度だけ足を止めた。
山の上の都市から、色とりどりの旗が、風に揺れていた。
「先輩、フィルさんは、本当に風詠みになれたんでしょうか」
「さあね。でも」
「でも?」
「風を見るたびに、私のことを思い出してくれたら、うれしいな」
「……先輩、ちょっとロマンチストですね」
「天使だからね」




