3-6「雲の子は橋を渡る」
広場には、すでに精霊たちが集まっていた。
夜明けの空は薄い灰色で、足元の石畳は、はっきりと斜めになっている。屋台の骨組みがきしみ、誰かが泣いていた。
侍従に支えられた女王エリュシアが、ゆっくりと中央の台に上がった。
十年ぶりの姿だった。
「皆さん」
ざわめきが、波のように静まる。透き通る輪郭に、誰かが息を呑んだ。
「島が沈んでいる理由を、お話しします」
女王は、結界の核のこと、三百年前の約束のこと、若木がもう長くないことを、ひとつずつ静かに語った。
誰も口を挟まなかった。話が終わっても、しばらく、風の音だけが残った。
*
「……結界を、解くべきだ」
最初に声を上げたのは、ボルグだった。
「俺はな、昔みてえに、窓から星が見てえんだ。それに、島が落ちたら元も子もねえだろうが」
「愚かな!」
老いた風の精霊が、杖を床に打ちつけた。
「結界がなくなれば、人間が来る。三百年前の悲劇を、忘れたのか」
「記録によれば――」
ミナが、静かに口を挟んだ。
「結界以前の都市には、他種族と交易していた記述もあります。すべての人間が、敵だったわけでは」
「記録など、何の証拠にもならん!」
怒号が飛び交う。若い精霊たちは外を見たがり、年長者たちは恐れた。誰もが正しいことを言っていた。だからこそ、誰も譲れなかった。
風詠みのオルテは、広場の端で膝をついていた。顔は紙のように白い。
「……もう、あまり、持ちません」
女王の肩の上で、私は口を開きかけた。
――外は、危なくない。あたたかい人もいる。
けれど、それは私が言うことではない。決めるのは、この人たちだ。
「ポメリィ……」
フィルが、私を見上げた。
「ポメリィは、外を知ってるんだよね。本当に、あたたかい人がいる?」
広場の視線が、一斉に集まった。
私は、深く息を吸った。
「います。そして、危ない人も、います。両方、本当です」
それだけ言って、口を閉じた。
どよめきが広がった。答えは、少しも楽にならなかった。
*
そのとき、島が悲鳴をあげた。
広場の南側、島の縁が、轟音とともに崩れ落ちた。石畳が割れ、橋がちぎれる。逃げ惑う精霊たちの中で、細い悲鳴が上がった。
「たすけてー!」
崩れかけた橋の向こう、孤立した小さな浮島に、幼い精霊たちが取り残されていた。四人。皆、手のひらほどの大きさだ。
橋は、もう渡れない。風の精霊たちは、乱れた風に翻弄されて近づけない。オルテが手を伸ばしたが、力が足りなかった。
私は、人混みの陰に滑り込んだ。
誰も見ていない。翼を広げる。
白い光がほどけて、四本の脚が石畳を蹴った。
*
崩れかけた橋の上を、ふわふわの白い犬が走る。
砕けた石を飛び越え、傾いた板を駆け上がる。小さな体は、こういうときに便利だ。
孤立した島にたどり着くと、子供たちは、ぽかんと私を見上げた。
「ふ、ふわふわ……」
「雲だ……雲の子だ……」
きゃん、と鳴いて、伏せの姿勢をとる。背中を見せて、乗れ、と示した。
子供たちは、おそるおそる背中によじ登った。一人、二人、三人、四人。しがみつかれた毛が、ぎゅうと引っ張られる。痛い。けれど、離すなと言うほうが無理だ。
帰り道、橋の板が、足元で割れた。
――落ちる。
翼を使えば、一瞬で渡れる。けれど私は、そのまま歯を食いしばって、前脚を伸ばした。
爪が、残った板の端にかかる。
体を引きずり上げ、最後の数歩を、全力で駆けた。
広場に飛び込んだとき、精霊たちから歓声があがった。
「助かった……!」
子供たちは母親の元へ駆けていき、泣きながら抱き合った。
私は、息を切らしてその場に座り込んだ。足が、がくがくしている。
「雲の子が、助けてくれた……」
誰かが、呟いた。
広場の視線が集まる。目立つ。私は、ゆっくりと後ずさった。
けれどフィルだけは、ずっと私を見ていた。
緑の髪の少女は、何かを確かめるように、小さく唇を動かした。
「……ポメリィ?」
*
夕暮れ、島の高度は、さらに下がっていた。
雲海は、足元すれすれまで迫っている。
「皆さん」
女王が、再び口を開いた。
「決めるのは、私ではありません。明日の朝、風渡りの鐘が鳴るとき、皆さんの答えを聞かせてください」
それが、最後の猶予だった。
「先輩、背中に四人も乗せて走ったんですか?」
「四人ね。意外と重かった」
「それって、犬としては、大活躍じゃないですか?」
「……爪が割れかけたけどね」




