3-5「三百年の苗木」
夜明け前の城は、眠っているようだった。
私は犬の姿で、石の階段を一段ずつ降りていた。
妖精の姿は目立つ。見つかればすぐに「光る羽の方」と気づかれる。その点、白いふわふわの犬なら、この都市の誰も見たことがない。……はずだった。
「……ん? なんだ、お前」
階段の途中で、槍を持った衛兵の精霊が、目を丸くした。
まずい。きゃん、と小さく鳴いてみる。
「ふ、ふわふわ……雲の子か? 迷い込んだのか?」
衛兵は槍を床に置いて、しゃがみこんだ。
「撫でても、いいか」
断る理由は、なかった。
数分後、衛兵は私のお腹を撫でながら「これは職務なんだ」と呟いていた。何の職務だろう。
私は、ゆっくりと彼の手から抜け出して、階段を駆け下りた。
*
地下は、湿っていた。
鼻が、はっきりと土の匂いを拾う。匂いを辿った先に、円形の部屋があった。
壁一面に、淡い光の鎖が走っている。結界の術式だ。鎖はすべて、部屋の中央に集まっていた。
そこに、小さな鉢がひとつ。細い若木が一本。葉の大半が枯れ、残りも色を失いかけている。
「……やはり、来たのですね」
鉢の傍らに、女王エリュシアが座っていた。夜着のまま、膝を抱えるようにして。
私は、妖精の姿に戻った。翼が光り、身体が縮み、小さな羽が背中に広がる。
「申し訳ありません。無断で」
「いいのです。私が、呼んだようなものですから」
女王は、枯れかけた若木に、そっと指を伸ばした。
「これが、結界の核です。三百年前、地上から持ってきた、ただ一本の苗木」
*
「かつて、人間たちは精霊を捕らえて、その力を搾り取っていました」
女王の声は、遠い昔を撫でるようだった。
「私たちは逃げ場を失いました。そのとき、一人の人間の青年が、手を差し伸べてくれたのです。名は、カイ」
彼は、精霊たちを空へ逃がす術を考え出した。結界と、浮島の都市。
けれど、術を完成させるには、地上に残って追手を引き付ける者が必要だった。
「彼は、笑って言いました。『大丈夫、すぐに追いつく』と。そして、この苗木を、私に預けたのです」
カイは、戻らなかった。
「三百年です。私は、結界を守り続けました。精霊たちを守るために。……そして、いつしか、彼との約束を守るために」
若木の葉が、一枚、はらりと落ちた。
「この子は、もう長くありません。結界を解けば、この子も枯れます。そうしたら、彼がここにいた証は、何も残らない」
私は、静かに尋ねた。
「女王様。結界は、精霊の皆様を守るためのものですか。それとも」
女王は、長い間、答えなかった。
やがて、小さく首を振った。
「……私が、あの日から、動けないだけかもしれません」
*
私は、一つだけ、伝えることにした。
「女王様。私は、妖精ではありません」
女王の目が、わずかに見開かれた。
「天界から降りて、世界を旅している者です。姿は、いくつも持っています。犬の姿も、そのひとつです」
「……そう。やはり」
女王は驚かなかった。ただ、ほっとしたように息をついた。
「では、お尋ねしてもいいですか。地上は、人間は、今でも」
「危ないこともあります。けれど」
私は、あの老人の手のぬくもりと、焚き火の前の男の背中を思った。
「あたたかい人も、たくさんいます。それは、三百年たっても、変わりません」
女王の目から、ひとすじの光がこぼれた。
そのとき、足元が大きく揺れた。
*
壁の光の鎖が、悲鳴のように明滅する。若木の葉が、数枚まとめて落ちた。
頭上から、遠く、人々の叫び声が響く。
「島が……!」
女王が、膝をついた。
「結界が……もう、保てない……」
「先輩、天界のこと、女王様に話しちゃっていいんですか?」
「重要な人には、いいことになってるんだ」
「誰が決めたんですか?」
「……私だよ」




