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名前のない旅人 ―白い天使の思い出話―  作者: 勝利の俺
天空都市ファルネリア編
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13/16

3-5「三百年の苗木」

夜明け前の城は、眠っているようだった。


 私は犬の姿で、石の階段を一段ずつ降りていた。

 妖精の姿は目立つ。見つかればすぐに「光る羽の方」と気づかれる。その点、白いふわふわの犬なら、この都市の誰も見たことがない。……はずだった。


「……ん? なんだ、お前」


 階段の途中で、槍を持った衛兵の精霊が、目を丸くした。

 まずい。きゃん、と小さく鳴いてみる。


「ふ、ふわふわ……雲の子か? 迷い込んだのか?」


 衛兵は槍を床に置いて、しゃがみこんだ。


「撫でても、いいか」


 断る理由は、なかった。

 数分後、衛兵は私のお腹を撫でながら「これは職務なんだ」と呟いていた。何の職務だろう。

 私は、ゆっくりと彼の手から抜け出して、階段を駆け下りた。

   *

 地下は、湿っていた。

 鼻が、はっきりと土の匂いを拾う。匂いを辿った先に、円形の部屋があった。


 壁一面に、淡い光の鎖が走っている。結界の術式だ。鎖はすべて、部屋の中央に集まっていた。

 そこに、小さな鉢がひとつ。細い若木が一本。葉の大半が枯れ、残りも色を失いかけている。


「……やはり、来たのですね」


 鉢の傍らに、女王エリュシアが座っていた。夜着のまま、膝を抱えるようにして。

 私は、妖精の姿に戻った。翼が光り、身体が縮み、小さな羽が背中に広がる。


「申し訳ありません。無断で」


「いいのです。私が、呼んだようなものですから」


 女王は、枯れかけた若木に、そっと指を伸ばした。


「これが、結界の核です。三百年前、地上から持ってきた、ただ一本の苗木」


   *

「かつて、人間たちは精霊を捕らえて、その力を搾り取っていました」


 女王の声は、遠い昔を撫でるようだった。


「私たちは逃げ場を失いました。そのとき、一人の人間の青年が、手を差し伸べてくれたのです。名は、カイ」


 彼は、精霊たちを空へ逃がす術を考え出した。結界と、浮島の都市。

 けれど、術を完成させるには、地上に残って追手を引き付ける者が必要だった。


「彼は、笑って言いました。『大丈夫、すぐに追いつく』と。そして、この苗木を、私に預けたのです」


 カイは、戻らなかった。


「三百年です。私は、結界を守り続けました。精霊たちを守るために。……そして、いつしか、彼との約束を守るために」


 若木の葉が、一枚、はらりと落ちた。


「この子は、もう長くありません。結界を解けば、この子も枯れます。そうしたら、彼がここにいた証は、何も残らない」


 私は、静かに尋ねた。


「女王様。結界は、精霊の皆様を守るためのものですか。それとも」


 女王は、長い間、答えなかった。

 やがて、小さく首を振った。


「……私が、あの日から、動けないだけかもしれません」


   *

 私は、一つだけ、伝えることにした。


「女王様。私は、妖精ではありません」


 女王の目が、わずかに見開かれた。


「天界から降りて、世界を旅している者です。姿は、いくつも持っています。犬の姿も、そのひとつです」


「……そう。やはり」


 女王は驚かなかった。ただ、ほっとしたように息をついた。


「では、お尋ねしてもいいですか。地上は、人間は、今でも」


「危ないこともあります。けれど」


 私は、あの老人の手のぬくもりと、焚き火の前の男の背中を思った。


「あたたかい人も、たくさんいます。それは、三百年たっても、変わりません」


 女王の目から、ひとすじの光がこぼれた。

 そのとき、足元が大きく揺れた。

   *

 壁の光の鎖が、悲鳴のように明滅する。若木の葉が、数枚まとめて落ちた。

 頭上から、遠く、人々の叫び声が響く。


「島が……!」


 女王が、膝をついた。


「結界が……もう、保てない……」

「先輩、天界のこと、女王様に話しちゃっていいんですか?」


「重要な人には、いいことになってるんだ」


「誰が決めたんですか?」


「……私だよ」

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