3-4「透きとおる女王」
城の廊下は、静かすぎた。
白い石の床に、侍従の足音だけが響く。窓は高く、光は柔らかい。けれど人の気配がほとんどない。壁の奥から、どく、どく、と低い脈動が伝わってくる。結界の鼓動だ、と私は思った。
フィルは、謁見の間の手前で足を止められた。
「陛下がお会いになるのは、光る羽の方のみです」
「ポメリィ……」
不安そうな少女の頭を、私は小さな手でぽんと叩いた。
「すぐ戻ります。お茶を、冷まさないでおいてくださいね」
扉が、ゆっくりと開いた。
*
玉座に座る女王エリュシアは、遠目には、淡い光の塊のようだった。
近づくと、ようやく人の形が見えてくる。白金の髪、長い睫毛。美しい人だった。ただ、その輪郭は薄く、背後の柱が透けて見えた。
「ようこそ、小さな客人」
声は、風のように穏やかだった。
「光る羽を持つあなたが、昨日の騒ぎを収めたと聞きました」
「いえ。私は、少し助言をしただけです。実際に島を支えたのは、精霊の皆さまです」
「……そう。謙虚なのですね」
女王は、静かに微笑んだ。
「ひとつだけ、尋ねます。あなたは、この結界を、どうやって越えたのですか。三百年、誰にも越えられなかったのに」
私は少し考えて、正直に答えた。
「分かりません。気づいたら、すり抜けていました」
「……そう」
女王は、それ以上追及しなかった。長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「あなたは、地上を、知っていますか」
「はい」
「そう……」
玉座の肘掛けを握る指が、わずかに震えた。
「島が沈んでいることは、私も知っています。それでも、結界を解くわけには、いきません」
「理由を、お聞かせいただけますか」
「お引き取りください。これは、私たちの問題です」
声は優しかった。けれど、扉は、はっきりと閉じられていた。
*
その夜、私は城の客室に通された。
天蓋つきの寝台は、妖精には広すぎる。窓の外には、月に照らされた雲海が広がっていた。
……疲れた。
妖精の体は軽やかだけれど、緊張が続くと、羽の付け根が妙にこわばる。
私は窓から庭へ降り、人目のない植え込みの陰で、そっと翼を広げた。
白い光がほどけて、四本の脚が地面に触れる。
ふわふわの毛、丸い尻尾。ああ、落ち着く。
私は芝生の上で、ごろんと転がった。月光を浴びながら、背中を草にこすりつける。上位存在としての威厳は、いまこの瞬間、完全に放棄している。
*
「……まあ」
不意に、頭上から声が降った。
はっとして顔を上げると、月明かりの中に、女王エリュシアが立っていた。薄い寝衣に、長い髪。供も連れず、ひとりで。
見られた。
私は固まった。犬の姿のまま、ひっくり返った格好で。
けれど、女王は驚いた顔をしなかった。
「やはり。あなたは、そういう方なのですね」
静かに屈みこんで、私のお腹を、そっと見つめる。
「結界が拒めないほど、遠くから来た方。……触れても、いいかしら」
断る理由は、なかった。
私は、きゃんと小さく鳴いた。
女王の手が、頭に触れた。
ひんやりと冷たい。透けた指先は、ほとんど重さを感じさせなかった。
「ふわふわ……。地上には、こんな生き物がいるのですね」
私は、鼻先を彼女の手にそっと押し当てた。
何か言おうとしても、犬の喉からは、きゃん、としか出ない。それが、少しだけもどかしい。
「地上は……あたたかい場所でしたか」
その問いは、私にというより、遠い誰かに向けられているようだった。
私は、きゃんと鳴いた。はい、と。
女王は、目を細めた。ほんの一瞬、泣きそうな顔をして、それからいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「ありがとう。……おやすみなさい」
立ち去る背中は、月光の中で、ほとんど溶けてしまいそうだった。
*
庭に残された私は、ふと鼻をひくつかせた。
夜風に混じって、微かな匂いがする。城の地下から立ちのぼる、湿った、懐かしい匂い。
これは、土だ。
空の上にあるはずのない、地上の土の匂いだった。
「先輩、女王様に犬の姿を見られたんですか?」
「見られたというか、撫でられたね」
「どうでした?」
「……手が、冷たかったな」




