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名前のない旅人 ―白い天使の思い出話―  作者: 勝利の俺
天空都市ファルネリア編
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12/18

3-4「透きとおる女王」

城の廊下は、静かすぎた。


 白い石の床に、侍従の足音だけが響く。窓は高く、光は柔らかい。けれど人の気配がほとんどない。壁の奥から、どく、どく、と低い脈動が伝わってくる。結界の鼓動だ、と私は思った。

 フィルは、謁見の間の手前で足を止められた。


「陛下がお会いになるのは、光る羽の方のみです」


「ポメリィ……」


 不安そうな少女の頭を、私は小さな手でぽんと叩いた。


「すぐ戻ります。お茶を、冷まさないでおいてくださいね」


 扉が、ゆっくりと開いた。

   *

 玉座に座る女王エリュシアは、遠目には、淡い光の塊のようだった。

 近づくと、ようやく人の形が見えてくる。白金の髪、長い睫毛。美しい人だった。ただ、その輪郭は薄く、背後の柱が透けて見えた。


「ようこそ、小さな客人」


 声は、風のように穏やかだった。


「光る羽を持つあなたが、昨日の騒ぎを収めたと聞きました」


「いえ。私は、少し助言をしただけです。実際に島を支えたのは、精霊の皆さまです」


「……そう。謙虚なのですね」


 女王は、静かに微笑んだ。


「ひとつだけ、尋ねます。あなたは、この結界を、どうやって越えたのですか。三百年、誰にも越えられなかったのに」


 私は少し考えて、正直に答えた。


「分かりません。気づいたら、すり抜けていました」


「……そう」


 女王は、それ以上追及しなかった。長い沈黙のあと、ぽつりと言った。


「あなたは、地上を、知っていますか」


「はい」


「そう……」


 玉座の肘掛けを握る指が、わずかに震えた。


「島が沈んでいることは、私も知っています。それでも、結界を解くわけには、いきません」


「理由を、お聞かせいただけますか」


「お引き取りください。これは、私たちの問題です」


 声は優しかった。けれど、扉は、はっきりと閉じられていた。

   *

 その夜、私は城の客室に通された。

 天蓋つきの寝台は、妖精には広すぎる。窓の外には、月に照らされた雲海が広がっていた。


 ……疲れた。

 妖精の体は軽やかだけれど、緊張が続くと、羽の付け根が妙にこわばる。

 私は窓から庭へ降り、人目のない植え込みの陰で、そっと翼を広げた。


 白い光がほどけて、四本の脚が地面に触れる。

 ふわふわの毛、丸い尻尾。ああ、落ち着く。

 私は芝生の上で、ごろんと転がった。月光を浴びながら、背中を草にこすりつける。上位存在としての威厳は、いまこの瞬間、完全に放棄している。

   *

「……まあ」


 不意に、頭上から声が降った。

 はっとして顔を上げると、月明かりの中に、女王エリュシアが立っていた。薄い寝衣に、長い髪。供も連れず、ひとりで。


 見られた。

 私は固まった。犬の姿のまま、ひっくり返った格好で。


 けれど、女王は驚いた顔をしなかった。


「やはり。あなたは、そういう方なのですね」


 静かに屈みこんで、私のお腹を、そっと見つめる。


「結界が拒めないほど、遠くから来た方。……触れても、いいかしら」


 断る理由は、なかった。

 私は、きゃんと小さく鳴いた。

 女王の手が、頭に触れた。

 ひんやりと冷たい。透けた指先は、ほとんど重さを感じさせなかった。


「ふわふわ……。地上には、こんな生き物がいるのですね」


 私は、鼻先を彼女の手にそっと押し当てた。

 何か言おうとしても、犬の喉からは、きゃん、としか出ない。それが、少しだけもどかしい。


「地上は……あたたかい場所でしたか」


 その問いは、私にというより、遠い誰かに向けられているようだった。


 私は、きゃんと鳴いた。はい、と。

 女王は、目を細めた。ほんの一瞬、泣きそうな顔をして、それからいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。


「ありがとう。……おやすみなさい」


 立ち去る背中は、月光の中で、ほとんど溶けてしまいそうだった。

   *

 庭に残された私は、ふと鼻をひくつかせた。

 夜風に混じって、微かな匂いがする。城の地下から立ちのぼる、湿った、懐かしい匂い。


 これは、土だ。

 空の上にあるはずのない、地上の土の匂いだった。

「先輩、女王様に犬の姿を見られたんですか?」


「見られたというか、撫でられたね」


「どうでした?」


「……手が、冷たかったな」

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