第71話 窓の外へ②
第71話です。
祝杯の夜、侯爵令嬢は自らの足で歩き出す。
縁談を断り、母に別れを告げ、兄の待つ地へ。
手を引いたのは、無骨で不器用な護り手。
決別は終わりではない。旅の続きへ。
祝杯の音が広間に響いた。
杯が持ち上げられ、拍手が広がり、華やかな夜が本格的に動き始めた。燭台の灯りが揺れ、料理の香りが漂い、絹を纏った人々が思い思いに動き出す。
そして――ルナの周囲に、人が集まり始めた。
最初の一人が声をかけるより前から、それは分かっていた。視線が向いている。足が向いている。今夜この場において、ルナ・フォン・ラシェンテという名は、遺物の発見者であると同時に、侯爵家の未婚の令嬢でもあった。
「ルナ様、ご活躍、誠に見事にございました」
「我がカルヴェル家とも、ぜひ一度ご縁をいただければと――」
「いやいや、ルナ様のご功績に最もふさわしいのは――」
声が重なる。笑顔が重なる。どれも整っていて、どれも同じように見えた。
ルナは微笑んだ。完璧な、侯爵令嬢の微笑みで。
「ありがとうございます」
それだけを繰り返しながら、その目は別のところを見ていた。
広間を、静かに、しかし確実に、探していた。
濃紺の礼装。飾り気のない立ち姿。人の波に飲まれることなく、しかしどこか透明なように存在する、あの男を。
いない。
人垣の向こうを見渡しても、見当たらない。
「ルナ様、ダンスのお相手を――」
「申し訳ございません、少々失礼いたします」
貴族たちの言葉を遮り、ルナは静かに、しかし迷わず人垣をすり抜けた。
広間の端、黒のローブが見えた。
「リシェル」
リシェルが振り返った。その手には小さな皿が載っており、料理をどう食べようか考えあぐねているような顔をしていた。
「タクミはどこへ行ったの?」
「え、あ――玄関の方へ、何か持って……」
ルナはそれだけ聞いて、足を動かしていた。
◇
玄関扉を抜けると、夜風が頬を撫でた。
夜の石畳。遠くで馬が息をついている。燭台の灯りが届かない薄闇の中に、白銀の塊が丸くなっていた。
ガウル。
その傍らに、濃紺の礼装を纏った男がしゃがみ込んでいた。
タクミだった。
手には料理が山盛りに載った大皿。宴席から持ち出してきたものだろう。肉、焼き魚、果実が無造作に積み上げられたそれを、タクミはガウルの前に差し出していた。
「ほら、玄関で待たせたからな。好きなだけ食っていいぞ」
ガウルは大きな頭をゆっくりと動かし、差し出された皿へ顔を近づけた。それから、まるで礼を言うように一度タクミを見上げ、静かに食べ始めた。
「いい子だな」
タクミは白銀の毛並みを、無造作に撫でた。
ガウルの目が細くなった。
ルナはその様子を、玄関扉の陰からしばらく見ていた。
動けなかった。
正確には、動く気になれなかった。
タクミがガウルと話しているのか、独り言を言っているのか分からない。ただ、そこにある空気が、静かで、温かかった。言葉ではない何かが、二者の間に流れていた。
羨ましい、と思った。
そういう感情だと気づくのに、少し時間がかかった。
あの温かさの欠片を、自分にも分けてほしい。その手が向ける眼差しを、少しだけ、自分にも。
おかしな話だと思った。三年間、誰にも頼らず、誰にも寄りかからず、それが当然だと思って生きてきた。弱音を吐くことも、涙を見せることも、ほとんどしなかった。
なのに。
あの男の前では、なぜか、それが崩れる。
吊橋の前で泣き崩れたときも。法衣を羽織って涙が止まらなかったときも。凛としていなければならないと思っていたのに、タクミの前ではそれができなかった。
できなかったのに、不思議と、恥ずかしくなかった。
そしてその感情に、今夜はじめて、名前をつけてもいいかもしれないと思った。
そんなことを思いながら、ルナは一歩踏み出した。
「……タクミ」
声が出た。
だが、なぜか、いつものように出なかった。依頼の話をするときの、探訪者同士の、あの淡々とした声ではなかった。
タクミが振り返った。
「お前か。宴はどうした」
「……少し、息が詰まってしまったの」
「そうか」
タクミはそれ以上聞かなかった。ガウルの頭をもう一度撫でてから、立ち上がった。
ルナは石畳の上でガウルと向き合い、しばらく黙っていた。何か話さなければ、と思うのに、言葉が出てこない。
「……その、今日は」
「ん?」
「……来てくれて、良かったわ」
言ってから、耳が熱くなった。
タクミは少しの間、ルナを見た。それから、特に何も言わずに視線をガウルへ戻した。
「招待状をもらったからな」
素っ気ない一言だった。それでも、ひどく温かかった。
ルナはガウルの白銀の毛並みに手を伸ばした。柔らかかった。温かかった。タクミが撫でていた場所と、同じ場所を。
しばらく、二人と一匹は石畳の上に並んでいた。
それから、ルナは顔を上げた。
「……仲間の紹介があるの。父が、宴の最後にと言っていたから」
「そうか」
「……だから、戻っていただけるかしら」
タクミは一度ガウルを見た。ガウルはすでに満足そうに目を細めていた。
「分かった」
ルナはタクミの手を取った。
とっさに、動いていた。
細い指が、タクミの手の甲に触れる。引く、というより、繋ぐような力だった。
タクミは特に驚いた様子もなく、ただ引かれるままに歩き出した。
ルナは前を向いたまま、耳の熱が引かないことを祈った。
◇
大広間へ戻ると、ダンスが始まっていた。
弦楽器の音が広間を満たし、絹の裾が翻る。壇上では父クラウスが静かに場を見守り、宴の終わりを待っていた。
やがて曲が終わり、侯爵が前へ出た。
「諸君、少しだけ時間をいただきたい」
広間がゆるやかに静まっていく。
「今宵の遺物発見に際し、娘と共に行動した探訪者の方々をご紹介したい。タクミ殿、リシェル殿、ロイド殿、壇上へ」
三人が呼ばれた。
タクミ、リシェル、ロイドが並んで壇上へ上がる。ロイドは若干皿を持ったままだったが、リシェルが素早く取り上げた。
ルナが前へ出た。
真紅のドレスが燭台の灯りを受け、広間の視線が再び集まる。
「此度、私と共に遺跡へ向かい、この発見を支えてくださった方々よ」
ルナの声は、よく通った。
「タクミ様は――」
そのとき。
声が、割り込んだ。
「ルナ」
広間の空気が、一瞬で変わった。
エレオノーラ・フォン・ラシェンテ。漆黒の髪を高く結い上げ、深い葡萄酒色のドレスを纏った女が、人垣を割るように前へ出た。扇子を静かに閉じながら、その目は娘へ向いていた。
「よくやりました」
声は穏やかだった。だが、穏やかさの奥に、何かが潜んでいた。
「国宝級の遺物を発見するとは、さすが私の娘ね。ラシェンテの名に恥じない働きでした」
広間がざわめく。称賛の声が上がりかける。
だがエレオノーラは続けた。
「だからこそ、良い知らせがあります」
扇子が、静かに開いた。
「公爵家との縁談が、正式に決まりました」
広間が、静まり返った。
「あなたが名を上げたことで、先方もご快諾くださいました。探訪者としての活動は、ここまでで十分でしょう。侯爵家の人間には、侯爵家にふさわしい場所がある」
さらりと、告げた。
三年間を、一息で終わらせるように。
「さあ、今夜は祝いの席です。続きはまた後ほど――」
「御母様」
声が、広間を貫いた。
静かだった。震えていなかった。
ルナ・フォン・ラシェンテの声だった。
エレオノーラが振り返った。広間の全員が、息を止めた。
「お断りします」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
あの冬の夜、喉の奥で溶けてなくなっていた言葉が、今夜は消えなかった。六歳から叩き込まれた「崩れてはいけない」という言葉より、もっと深いところから来た声だった。
広間が凍りついた。
エレオノーラの目が、わずかに細くなった。
その瞬間、ルナは動いた。
壇上のタクミの腕を引き、自分の方へ向かせた。
迷いは、なかった。
石畳の上で芽生えたあの感情に、今夜、答えを出す。
ルナは、タクミに口づけをした。
広間が、完全に沈黙した。
一秒。二秒。
ルナは離れた。
頬が、熱かった。自分でも分かるほど、顔が赤くなっていた。それでも視線だけは逸らさなかった。
タクミは、固まっていた。
あの、何があっても飄々としている男が、珍しく言葉を持っていなかった。口を開きかけて、閉じた。その顔を見て、ルナは小さく息をついた。それだけで、少しだけ、胸の重さが引いた。
ルナは壇上を下り、台座へ向かった。白布の上に掛けられた純白の法衣へ手を伸ばし、静かに羽織った。大樹を囲む飛竜の紋章が、燭台の灯りの中で静かに輝いた。
それからエレオノーラへ向き直った。
背筋は真っ直ぐだった。顎は引かれていた。六歳から教え込まれた姿勢のまま、しかし今夜だけは、それが鎧ではなく、自分のものだった。
「アレクお兄様に会いに行きます」
広間の誰も、声を出さなかった。
「御母様、お元気で」
それだけを言って、ルナは歩き出した。
純白の裾が、燭台の灯りの中で揺れた。
タクミが壇上を下りた。リシェルが黒のローブを翻した。ロイドが、持っていた皿をそっと卓上に置いてから、後に続いた。
四人の足音が、静まり返った広間を横切っていく。
誰も、止めなかった。
大扉が開いた。
夜風が、広間へ流れ込んだ。
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広間に、長い沈黙が残った。
エレオノーラは、扇子を静かに閉じたまま、その場に立っていた。その表情を読めた者は、この広間に一人もいなかった。
壇上の端で、クラウス・フォン・ラシェンテは静かに杯を傾けた。
騒ぎを止めようとはしなかった。声を上げようともしなかった。
ただ、小さく息をついた。
そうなるだろうと、思っていた。
あの子は昔から、追い詰められたときほど、真っ直ぐに動く。五歳の冬に死の淵から戻ってきたときも、そうだった。どれほど弱っていても、その目だけは消えなかった。
クラウスは広間の大扉へ視線を向けた。
もうそこに娘の姿はない。純白の裾も、飛竜の紋章も、夜の向こうへ消えていった。
それでいい、と思った。
口には出さなかった。出す必要もなかった。
ただ、もう一度、静かに杯を傾けた。
夜風が、まだ広間の中を漂っていた。
(経過日数:442日)
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第71話「窓の外へ②」でした。
あの一瞬に、全てが塗り替わった夜だった。
理屈よりも早く、心だけが先に動いていた。
戻れないのではなく、戻る気がなかった。
それだけが、確かな答えだった。
次回、第72話「護衛依頼――オルデへ」





