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砂漠転生  作者: たまりん
第3章 ラシェンテ編―探訪者の街―
71/73

第71話 窓の外へ②


 第71話です。

 

 祝杯の夜、侯爵令嬢は自らの足で歩き出す。

 縁談を断り、母に別れを告げ、兄の待つ地へ。

 手を引いたのは、無骨で不器用な護り手。

 決別は終わりではない。旅の続きへ。



 祝杯の音が広間に響いた。


 杯が持ち上げられ、拍手が広がり、華やかな夜が本格的に動き始めた。燭台の灯りが揺れ、料理の香りが漂い、絹を纏った人々が思い思いに動き出す。


 そして――ルナの周囲に、人が集まり始めた。


 最初の一人が声をかけるより前から、それは分かっていた。視線が向いている。足が向いている。今夜この場において、ルナ・フォン・ラシェンテという名は、遺物の発見者であると同時に、侯爵家の未婚の令嬢でもあった。


「ルナ様、ご活躍、誠に見事にございました」


「我がカルヴェル家とも、ぜひ一度ご縁をいただければと――」


「いやいや、ルナ様のご功績に最もふさわしいのは――」


 声が重なる。笑顔が重なる。どれも整っていて、どれも同じように見えた。


 ルナは微笑んだ。完璧な、侯爵令嬢の微笑みで。


「ありがとうございます」


 それだけを繰り返しながら、その目は別のところを見ていた。


 広間を、静かに、しかし確実に、探していた。


 濃紺の礼装。飾り気のない立ち姿。人の波に飲まれることなく、しかしどこか透明なように存在する、あの男を。


 いない。


 人垣の向こうを見渡しても、見当たらない。


「ルナ様、ダンスのお相手を――」


「申し訳ございません、少々失礼いたします」


 貴族たちの言葉を遮り、ルナは静かに、しかし迷わず人垣をすり抜けた。


 広間の端、黒のローブが見えた。


「リシェル」


 リシェルが振り返った。その手には小さな皿が載っており、料理をどう食べようか考えあぐねているような顔をしていた。


「タクミはどこへ行ったの?」


「え、あ――玄関の方へ、何か持って……」


 ルナはそれだけ聞いて、足を動かしていた。


 ◇


 玄関扉を抜けると、夜風が頬を撫でた。


 夜の石畳。遠くで馬が息をついている。燭台の灯りが届かない薄闇の中に、白銀の塊が丸くなっていた。


 ガウル。


 その傍らに、濃紺の礼装を纏った男がしゃがみ込んでいた。


 タクミだった。


 手には料理が山盛りに載った大皿。宴席から持ち出してきたものだろう。肉、焼き魚、果実が無造作に積み上げられたそれを、タクミはガウルの前に差し出していた。


「ほら、玄関で待たせたからな。好きなだけ食っていいぞ」


 ガウルは大きな頭をゆっくりと動かし、差し出された皿へ顔を近づけた。それから、まるで礼を言うように一度タクミを見上げ、静かに食べ始めた。


「いい子だな」


 タクミは白銀の毛並みを、無造作に撫でた。


 ガウルの目が細くなった。


 ルナはその様子を、玄関扉の陰からしばらく見ていた。


 動けなかった。


 正確には、動く気になれなかった。


 タクミがガウルと話しているのか、独り言を言っているのか分からない。ただ、そこにある空気が、静かで、温かかった。言葉ではない何かが、二者の間に流れていた。


 羨ましい、と思った。


 そういう感情だと気づくのに、少し時間がかかった。


 あの温かさの欠片を、自分にも分けてほしい。その手が向ける眼差しを、少しだけ、自分にも。


 おかしな話だと思った。三年間、誰にも頼らず、誰にも寄りかからず、それが当然だと思って生きてきた。弱音を吐くことも、涙を見せることも、ほとんどしなかった。


 なのに。


 あの男の前では、なぜか、それが崩れる。


 吊橋の前で泣き崩れたときも。法衣を羽織って涙が止まらなかったときも。凛としていなければならないと思っていたのに、タクミの前ではそれができなかった。


 できなかったのに、不思議と、恥ずかしくなかった。


 そしてその感情に、今夜はじめて、名前をつけてもいいかもしれないと思った。


 そんなことを思いながら、ルナは一歩踏み出した。


「……タクミ」


 声が出た。


 だが、なぜか、いつものように出なかった。依頼の話をするときの、探訪者同士の、あの淡々とした声ではなかった。


 タクミが振り返った。


「お前か。宴はどうした」


「……少し、息が詰まってしまったの」


「そうか」


 タクミはそれ以上聞かなかった。ガウルの頭をもう一度撫でてから、立ち上がった。


 ルナは石畳の上でガウルと向き合い、しばらく黙っていた。何か話さなければ、と思うのに、言葉が出てこない。


「……その、今日は」


「ん?」


「……来てくれて、良かったわ」


 言ってから、耳が熱くなった。


 タクミは少しの間、ルナを見た。それから、特に何も言わずに視線をガウルへ戻した。


「招待状をもらったからな」


 素っ気ない一言だった。それでも、ひどく温かかった。


 ルナはガウルの白銀の毛並みに手を伸ばした。柔らかかった。温かかった。タクミが撫でていた場所と、同じ場所を。


 しばらく、二人と一匹は石畳の上に並んでいた。


 それから、ルナは顔を上げた。


「……仲間の紹介があるの。父が、宴の最後にと言っていたから」


「そうか」


「……だから、戻っていただけるかしら」


 タクミは一度ガウルを見た。ガウルはすでに満足そうに目を細めていた。


「分かった」


 ルナはタクミの手を取った。


 とっさに、動いていた。


 細い指が、タクミの手の甲に触れる。引く、というより、繋ぐような力だった。


 タクミは特に驚いた様子もなく、ただ引かれるままに歩き出した。


 ルナは前を向いたまま、耳の熱が引かないことを祈った。


 ◇


 大広間へ戻ると、ダンスが始まっていた。


 弦楽器の音が広間を満たし、絹の裾が翻る。壇上では父クラウスが静かに場を見守り、宴の終わりを待っていた。


 やがて曲が終わり、侯爵が前へ出た。


「諸君、少しだけ時間をいただきたい」


 広間がゆるやかに静まっていく。


「今宵の遺物発見に際し、娘と共に行動した探訪者の方々をご紹介したい。タクミ殿、リシェル殿、ロイド殿、壇上へ」


 三人が呼ばれた。


 タクミ、リシェル、ロイドが並んで壇上へ上がる。ロイドは若干皿を持ったままだったが、リシェルが素早く取り上げた。


 ルナが前へ出た。


 真紅のドレスが燭台の灯りを受け、広間の視線が再び集まる。


「此度、私と共に遺跡へ向かい、この発見を支えてくださった方々よ」


 ルナの声は、よく通った。


「タクミ様は――」


 そのとき。


 声が、割り込んだ。


「ルナ」


 広間の空気が、一瞬で変わった。


 エレオノーラ・フォン・ラシェンテ。漆黒の髪を高く結い上げ、深い葡萄酒色のドレスを纏った女が、人垣を割るように前へ出た。扇子を静かに閉じながら、その目は娘へ向いていた。


「よくやりました」


 声は穏やかだった。だが、穏やかさの奥に、何かが潜んでいた。


「国宝級の遺物を発見するとは、さすが私の娘ね。ラシェンテの名に恥じない働きでした」


 広間がざわめく。称賛の声が上がりかける。


 だがエレオノーラは続けた。


「だからこそ、良い知らせがあります」


 扇子が、静かに開いた。


「公爵家との縁談が、正式に決まりました」


 広間が、静まり返った。


「あなたが名を上げたことで、先方もご快諾くださいました。探訪者としての活動は、ここまでで十分でしょう。侯爵家の人間には、侯爵家にふさわしい場所がある」


 さらりと、告げた。


 三年間を、一息で終わらせるように。


「さあ、今夜は祝いの席です。続きはまた後ほど――」


「御母様」


 声が、広間を貫いた。


 静かだった。震えていなかった。


 ルナ・フォン・ラシェンテの声だった。


 エレオノーラが振り返った。広間の全員が、息を止めた。


「お断りします」


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。


 あの冬の夜、喉の奥で溶けてなくなっていた言葉が、今夜は消えなかった。六歳から叩き込まれた「崩れてはいけない」という言葉より、もっと深いところから来た声だった。


 広間が凍りついた。


 エレオノーラの目が、わずかに細くなった。


 その瞬間、ルナは動いた。


 壇上のタクミの腕を引き、自分の方へ向かせた。


 迷いは、なかった。


 石畳の上で芽生えたあの感情に、今夜、答えを出す。


 ルナは、タクミに口づけをした。


 広間が、完全に沈黙した。


 一秒。二秒。


 ルナは離れた。


 頬が、熱かった。自分でも分かるほど、顔が赤くなっていた。それでも視線だけは逸らさなかった。


 タクミは、固まっていた。


 あの、何があっても飄々としている男が、珍しく言葉を持っていなかった。口を開きかけて、閉じた。その顔を見て、ルナは小さく息をついた。それだけで、少しだけ、胸の重さが引いた。


 ルナは壇上を下り、台座へ向かった。白布の上に掛けられた純白の法衣へ手を伸ばし、静かに羽織った。大樹を囲む飛竜の紋章が、燭台の灯りの中で静かに輝いた。


 それからエレオノーラへ向き直った。


 背筋は真っ直ぐだった。顎は引かれていた。六歳から教え込まれた姿勢のまま、しかし今夜だけは、それが鎧ではなく、自分のものだった。


「アレクお兄様に会いに行きます」


 広間の誰も、声を出さなかった。


「御母様、お元気で」


 それだけを言って、ルナは歩き出した。


 純白の裾が、燭台の灯りの中で揺れた。


 タクミが壇上を下りた。リシェルが黒のローブを翻した。ロイドが、持っていた皿をそっと卓上に置いてから、後に続いた。


 四人の足音が、静まり返った広間を横切っていく。


 誰も、止めなかった。


 大扉が開いた。


 夜風が、広間へ流れ込んだ。


---


 広間に、長い沈黙が残った。


 エレオノーラは、扇子を静かに閉じたまま、その場に立っていた。その表情を読めた者は、この広間に一人もいなかった。


 壇上の端で、クラウス・フォン・ラシェンテは静かに杯を傾けた。


 騒ぎを止めようとはしなかった。声を上げようともしなかった。


 ただ、小さく息をついた。


 そうなるだろうと、思っていた。


 あの子は昔から、追い詰められたときほど、真っ直ぐに動く。五歳の冬に死の淵から戻ってきたときも、そうだった。どれほど弱っていても、その目だけは消えなかった。


 クラウスは広間の大扉へ視線を向けた。


 もうそこに娘の姿はない。純白の裾も、飛竜の紋章も、夜の向こうへ消えていった。


 それでいい、と思った。


 口には出さなかった。出す必要もなかった。


 ただ、もう一度、静かに杯を傾けた。


 夜風が、まだ広間の中を漂っていた。


(経過日数:442日)



 砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。


 第71話「窓の外へ②」でした。


 あの一瞬に、全てが塗り替わった夜だった。

 理屈よりも早く、心だけが先に動いていた。

 戻れないのではなく、戻る気がなかった。

 それだけが、確かな答えだった。


 次回、第72話「護衛依頼――オルデへ」


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リシェルとガウル
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