第70話 窓の外へ①
第70話です。
侯爵家の発表は街全体へ広がった。
遺物の発見は瞬く間に知られる。
人々は祝宴の話題で持ちきりとなる。
準備は静かに整えられていく。
翌朝、街は大騒ぎになっていた。
ラシェンテ侯爵家が公式な発表を行ったためだった。
内容はただ一つ。ラシェンテ侯爵家三女、ルナ・フォン・ラシェンテが国宝級の遺物を発見した、というものだった。
知らせは朝の市場から始まり、昼には街道沿いの宿にまで届き、夕刻には街全体を覆い尽くした。人々は広場で囁き合い、商人たちは目を輝かせ、探訪者協会の前には野次馬が群れをなした。三年間鳴かず飛ばずだった侯爵家の三女が、突如として歴史の表舞台に躍り出た。その事実だけで、街の空気は一変していた。
◇
オルデン商会、四階商会長室。
タクミは窓の外を流れる喧騒を眺めながら、椅子に深く座っていた。
対面には支店支配人のタイフ・ラディームが、いつもの端正な所作で茶を注いでいる。細い指が茶器を持つ様は、どこか儀礼めいた静けさがあった。その傍ら、ロイドは卓上の茶菓子をすでに半分ほど片付け、次の一口をごく自然に口へ運んでいた。
「大騒ぎだな」
タクミが言った。
「ええ」
タイフは静かに頷く。その声には、珍しく感慨のようなものが滲んでいた。
「ラシェンテ二百八十年の歴史を紐解きましても、温度調整魔法陣が刻まれた遺物の出土は前例がございません。まさしく、初の発見にございます」
「そうなのか。貴重な物だとは思っていたが、そんなに珍しいんだな」
「左様でございます」
タイフは茶を置き、僅かに姿勢を正した。
「現存が確認されておりますのは、千二百年前――時の皇帝アルダシール・ヴァルド・トルクス陛下へ献上された一枚のみ。……これは、まぎれもなく歴史的発見にございます」
「てことはこの世界には二つしかないってことか」
「左様にございます。疑いようもなく――"国宝"にございます」
タイフの目が、静かに遠くなった。
「まさか、この地より斯様な至宝が出土するとは……僥倖という他ございません。これは、ラシェンテ侯爵家の命運をも変えましょう。昇爵も、決して夢ではありません」
その言葉を聞きながら、タクミは無言で立ち上がった。
纏っていた外套を脱ぎ、タイフへと差し出す。
「じゃあこれは三つ目だな。着てみてくれ」
タイフは一瞬、動きを止めた。
それからゆっくりと外套を受け取り、両手で広げ、静かに羽織った。
袖を通した瞬間、タイフの表情が変わった。変わった、というより――固まった。唾を飲む音が、静かな室内にかすかに響いた。羽織った瞬間に別の何かへと変わる。肌に触れる空気が、するりと整っていく。暑くもなく、寒くもなく、ただ心地よい温度が、静かに全身を包んでいった。
「こ、これは……。高度な術式であるとは察しておりましたが――まさか、温度調整魔法陣とは……」
タイフは外套をそっとタクミへ返した。その手が、わずかに震えていた。
「あまり驚かないんだな」
「ええ」
タイフは小さく息を整え、いつもの静謐な表情を取り戻す。
「タクミ様は常に規格の外におられますゆえ……今さら驚きはいたしません」
そのとき、扉を叩く音が聞こえた。
「構いません。入ってください」
従業員が静かに室内へ入ってきた。木のトレイの上に、封蝋付きの手紙が二通。タイフの耳元で短く何かを告げ、丁寧な所作でトレイを差し出した。
「こちらはラシェンテ侯爵家より、タクミ様へ宛てられた書状にございます。封蝋をお解きいたしましょうか」
「ああ、悪いな。頼む」
タイフが封蝋を割り、タクミへ手渡す。
タクミは手紙を開いた。
『敬愛なるタクミ様
此度、我がラシェンテ家にて発見されました遺物につき、祝賀の宴を催す運びとなりました。
明後日の夕刻、侯爵邸にてささやかながら席を設けさせていただきます。
本件は当家二百八十年の歴史に刻まれる慶事にございます。
けれど――私にとりましては、それ以上に、タクミ様にお越しいただけるかどうかが何よりの案じ事にございました。
どうかご臨席賜りたく、ここにご案内申し上げます。
なお、家族にはタクミ様を大切な探訪者の仲間としてお伝えいたしております。服装などにつきましても、どうぞお気遣いなさいませぬよう。
……そして、もし差し支えなければ。
ロイド様、ガウル様にもぜひお声がけいただけましたら幸いに存じます。タクミ様と共に歩まれる御方々を、私もまた、心よりお迎え申し上げたく存じます。
……けれど本心を申せば。
どのようなお姿であろうとも、私はただ、再びお会いできますことを願っております。
侯爵邸にて、タクミ様をお迎えできますその刻を、今より心待ちにしております。
ルナ・フォン・ラシェンテ』
読み終える。
招待状だった。
タクミは手紙を折り、卓上に置いた。
「服装は自由って書いてあるけど……さすがにそのままってわけにもいかないよな」
「それでしたら、お仕立ていたしましょうか。もちろん、お貸しすることも可能にございます」
「何度も悪いな。多分、こういう場に出るのは今回きりだろうし……貸してもらえると助かるよ」
タイフは二度、手を鳴らした。従業員が音もなく飛んできた。タクミとロイドの寸法を素早く測り、メモを取り、一礼して出ていく。ロイドはその間も手を止めず、茶菓子のおかわりを要求していた。
しばらくして、タイフの視線がふと卓上の手紙へ落ちた。
「タクミ様、差し支えなければ、拝読をお許しいただけますか」
「ただの招待状だぞ?」
タクミは特に気にした様子もなく、手紙をタイフへ渡した。
タイフは静かに読んだ。読み終えた後、一拍の間があった。
「こ、これは……恋文のような招待状にございますね……」
「恋文? そんなわけないだろ。世話してやったし、その礼も込めての招待状なんだろ」
「さ、左様にございますか……。私の早合点であればよろしいのですが」
タイフは手紙をそっと返しながら、小さく咳払いをした。
「礼服は明後日の夕刻に間に合うよう、万全を期してご用意いたします」
「すまないな。代金は預けた金から引き落としといてくれ」
「承知いたしました。それとは別件にございますが、以前タクミ様にお仕立ていたしました"バックパック"なる品につきまして。試験的に販売いたしましたところ、予想を上回る反響をいただいております。つきましては、思案料として相応の額をタクミ様の口座へ振り込ませていただきました」
「思案料? それ、いくらになってる?」
「大金貨七枚ほどでございます」
二人の視線が交わった。わずかな沈黙が落ちた。
「……増えてるな」
帰り際、タクミは禁術書をタイフに見せた。タイフは頁を開き、しばらく眺め、静かに閉じた。読めなかった。これが何であるかは分からない。持ち歩いても大丈夫だろう。タクミはそれだけを確認し、商会を後にした。
◇
祝賀会当日。
夕刻が近づくにつれ、ラシェンテ侯爵邸の前は華やいでいた。
石畳の車寄せには豪奢な馬車が列をなし、絹と宝石を纏った貴族たちが次々と邸内へ吸い込まれていく。夕陽を受けた石造りの館は赤く染まり、二百八十年の歴史が積み上げてきた威光を、静かに、しかし確かに、示していた。
その前に、タクミとロイドが並び立っていた。
濃紺の細身ロングジャケットに白の立襟シャツ。銀の小さなボタン。細い革ベルト。艶を抑えた黒革靴。揃いの礼装は飾りこそ少ないが、仕立ての良さがひと目で分かる。
タクミは肩を軽く回した。
「はは、馬子にも衣装だなロイド」
隣で、ロイドは首元を引っ張りながら顔をしかめていた。
「ぐぎぎ……窮屈だなこの服……」
「飯はたらふくあるから安心しろ。食い放題だぞ。あと酒飲むなよ。おまえ酒グセ悪いからな」
「わ、わかったよ兄貴」
そのやり取りを、少し離れた位置からリシェルが眺めていた。
リシェルは黒のローブを纏っていた。深い闇色に銀糸の縁取りが走る魔法師の礼装が、夕陽の中で静かに揺れている。
彼女は小さく息を整えた。
「……行きましょう」
門衛に招待状を見せ、三人は視線を交わした。
それから、侯爵邸へと歩き出す。
白灰の石を積み上げた三層の館。左右対称の重厚な造りで、中央には高い大扉。真鍮の金具が夕陽を受けて鈍く光り、ラシェンテ家の家紋が石に静かに刻まれている。濃紺の瓦屋根。均整の取れた窓列。そして何より目を引くのは、広く取られた庭だった。低木は丁寧に刈り揃えられ、石畳の通路がまっすぐ玄関へと伸びている。
派手ではない。
だが、街の中心にあって、揺るがぬ威厳を放っていた。
玄関前で、タクミは立ち止まった。
傍らに座る白銀の巨体――ガウルへ視線を落とす。旅を共にしてきた相棒は、夕陽の中で静かにタクミを見上げていた。
「すまないが少し見ててくれないか」
タクミは近くの使用人へ声をかけた。
「名前はガウルって言うんだ。大人しいから安心してくれ」
使用人たちは、ガウルを見て一瞬息を呑んだ。白銀の毛並み。人間をゆうに超える体躯。しかしその瞳は、驚くほど穏やかだった。
「か、かしこまりました……」
「あとでごちそう持ってきてやるからな。大人しくしてるんだぞ」
頭を撫でると、ガウルは大きな体をゆっくりと丸めた。石畳の上に、白銀の毛並みが静かに広がる。
タクミはそれを見届けてから、顔を上げた。
大扉が、目の前にあった。
真鍮の金具が夕陽を照り返し、二百八十年分の時間が、その扉の向こうで静かに息をしていた。
タクミは一歩、踏み出した。
◇
案内されたのは二階の大広間だった。
高い天井に吊るされた燭台の灯りが、広間全体を柔らかく満たしている。長卓には色とりどりの料理が並び、肉料理、焼き魚、果実、甘味が惜しげもなく積み上げられていた。立食形式らしく、絹を纏った客たちが思い思いに皿を手に取り、語らいながら会場を行き交っていた。
タクミは近くの使用人から皿を受け取り、ロイドへ渡した。
「好きなだけ食って大丈夫だから落ち着いて食え。汚らしいことをしたら追い出されるからな」
「わかったぜ兄貴!」
ロイドは目の色を変え、料理の山へ一直線に向かった。
タクミは小さく息をつき、隣を見た。
「リシェル、悪いがあいつ見張っといてくれ」
「わ、わかりました」
黒のローブが揺れ、リシェルは慌ててロイドの後を追う。
その背中を見送りながら、タクミは広間を静かに見渡した。
貴族というものの集まりは、どこか水面に似ていると思った。表面は穏やかで美しく、しかし水面下では絶えず何かが動いている。笑顔と笑顔がぶつかり、言葉と言葉が探り合う。華やかな衣装の下に、それぞれの思惑と利害が息をしていた。
その時だった。
ざわめいていた会場が、すっと静まり返った。
視線が一斉に中央へ集まる。
用意された壇上に、ひとりの男が立っていた。
白髪の混じり始めた茶褐色の髪。深い青灰色の瞳。ただ立っているだけで周囲の空気を落ち着かせる、穏やかな風格を持つ人物だった。ラシェンテ侯爵家当主、クラウス・フォン・ラシェンテ。その存在感は、声を上げる前からすでに広間を支配していた。
「本日はご多忙の折にもかかわらず、我がラシェンテ家の招きに応じてくださったこと、まずは厚く御礼申し上げる」
広間に静寂が落ちた。
「今宵は祝宴である。ラシェンテがこの地に根を下ろして以来、かつて例を見ぬ遺物が発見された」
侯爵はゆるやかに視線を広間の中央へ向けた。
そこには、鎧掛けに似た専用の台座が据えられていた。白布が敷かれ、周囲には近づき過ぎぬよう控えの縄が巡らされている。台座に丁重に掛けられたその法衣は、燭台の灯りを受けて白から薄紫へとなだらかに色を変え、静かに、しかし確かな存在感を放っていた。
「その成立年代は未だ定かではない。だが施された術式、素材、保存状態――いずれを取っても、尋常ならざる品であることは疑いようがない」
ざわめきが、静かに広がった。
「この発見は、ラシェンテ二百八十年の歴史に新たな一頁を刻むものであろう」
侯爵は一歩退き、傍らへと手を差し向けた。
「そして、この功を立てた者を紹介する」
視線が、一点に集まった。
「我が三女、ルナ・フォン・ラシェンテである」
その瞬間、空気が変わった。
変わった、というより――止まった。
深い真紅のドレス。滑らかな布地は燭台の光を受けてわずかに輝き、歩くたびに影が流れる。プラチナブロンドのロングヘアが、緩やかな動きに合わせて静かに揺れた。整いすぎた顔立ちは、ただそれだけで視線を奪った。鍛え抜かれた長身は無駄のない美しい線を描き、背筋は一本の棒のように真っ直ぐに伸びていた。
一瞬、会場から音が消えた。
誰もが遺物ではなく、彼女そのものに目を奪われていた。言葉が出ない。ただ見てしまう。目を逸らせない。
次の瞬間、ようやく息を呑む音があちこちで重なるように広がった。驚きというより、反射に近かった。美しさに、場が一瞬遅れて理解を放棄しているようだった。
タクミは、その様子を黙って見ていた。
気づいたら、目が離せなくなっていた。
理由を考える前に、視線がそこへ吸い寄せられていた。意識したわけでも、見ようとしたわけでもない。ただ気づいたら、見ていた。
ルナ・フォン・ラシェンテ。
真紅の中に立つその姿を、タクミはしばらくの間、ただ見つめていた。
何かを考えるより先に、目が動くことをやめなかった。そういう種類の美しさだった。理屈ではない。言葉でもない。ただ、見てしまう。それだけだった。
我に返ったのは、隣でロイドが皿を山盛りにして戻ってきた音がしたときだった。
「娘の働きを誇りとするとともに、諸君と共に今宵の慶事を分かち合いたい」
侯爵は杯を掲げた。
「――祝宴を始めよう」
広間が、ふたたびざわめいた。
拍手が広がり、笑顔が戻り、杯が持ち上げられた。燭台の灯りが揺れ、料理の香りが漂い、華やかな夜が動き始めた。
タクミはその中で、ただ静かに立っていた。
(経過日数:442日)
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第70話「窓の外へ①」でした。
祝宴は、ただの式典では終わらない。
政治の約束は破られ、未来の婚姻は否定される。
そしてルナは、全ての目の前で選択を示す。
それは言葉ではなく、確かな口づけとして刻まれる。
次回、第71話「窓の外へ②」





