第69話 ルナ・フォン・ラシェンテ
第69話です。
窓の外を見つめ続けた少女が、
初めて扉を押し開けた夜があった。
三年という約束は、冷たい鎖のようで、
同時に、彼女の最後の希望でもあった。
ルナ・フォン・ラシェンテは、子どもの頃から「窓の外」が好きだった。
侯爵家の屋敷には窓が多い。帝都から遠く離れた中央大陸の飛び地、探訪者の街ラシェンテを見下ろす大窓。中庭を囲む回廊の細窓。書庫の高い位置に穿たれた、はめ殺しの採光窓。どれも、外の世界を見せてくれるが、開けることはできない。
それがラシェンテ侯爵家の令嬢という立場の、もっとも正確な比喩だと、彼女はずっと感じていた。
見ることは許される。
出ることは許されない。
最初の記憶は、五歳の冬だった。
熱で朦朧とした意識の中、白い天井だけが視界を塞いでいた。体の感覚がない。ただ遠くで誰かが泣いていた。あの声が母のものだと気づいたのは、もっと後のことだ。
生死を彷徨った、と後から聞かされた。
覚えているのは、意識を取り戻した朝、父が枕元に座っていたことだ。
父の名はクラウス・フォン・ラシェンテ。トルクス帝国から中央大陸の飛び地を任された侯爵であり、探訪者の街ラシェンテの領主だった。白髪の混じり始めた茶褐色の髪。深い青灰色の瞳。その佇まいだけで周囲を安堵させる、穏やかな風格を持つ人だった。
そのとき、父は執務着のまま、眠ったように俯いて椅子に座っていた。手が膝の上で祈るように組まれていた。
「お父様」
呼んだら、父は顔を上げた。それから何も言わず、目を伏せた。
泣いていた。
あの人が泣くところを、ルナは後にも先にもあの一度しか見ていない。父の手が額に触れた感触と、「よかった」とだけ言った掠れた声を、今も覚えている。
その記憶が、父への感情のすべての基点だった。尊敬と信頼と、そして――どうしても拭えない、少しのわだかまり。その全部の根っこにある、たった一度の朝の光景。
六歳から礼法の授業が始まった。
侯爵令嬢は「崩れる」ことを許されない。その身体は侯爵家の「看板」であることを忘れてはならない、と所作の師はいつも言った。
幼いルナは、それが普通だと思っていた。
違和感が芽生えたのは、七歳の秋だった。
近隣の商家の子どもが屋敷の庭に入り込んできた。同じくらいの年頃の女の子で、庭の木に登って転げ落ち、泥だらけで笑っていた。腹の底から弾けるような笑い声が、手入れされた庭に響いた。
その笑い方を見て、ルナは何かが胸に刺さったような気がした。
痛みではない。羨望だったのだと、今なら分かる。
自分は一度も、あんなふうに笑ったことがない。
そう気づいたとき、ルナは初めて、自分が生きている檻の形を知った。
剣術を始めたのは、九歳の初夏だった。
初めて木剣を握った瞬間、何かが体の奥から噴き上げてくるのを感じた。炎に近い何かが。名前を知らないまま、ただ振り続けた。師範が止めても、手のひらに血豆ができても、振り続けた。
剣を振っているときだけ、自分の体が「自分のもの」だと感じられた。
その夜、母に呼ばれた。
母の名はエレオノーラ・フォン・ラシェンテ。帝都の名門伯爵家の出で、社交界の裏を知り尽くした女性だった。深い葡萄酒色のドレス。漆黒の髪を高い位置で結い上げた、隙のない立ち姿。
「令嬢がそんなに剣に夢中になるものではないわ」
水を打ったような声だった。怒りではない。ただ事実を告げるように。それがかえって、刃よりも深く刺さった。
ルナは何も言えなかった。なぜ剣を振るのか、説明できなかった。振っているとき、自分が自分であると感じた。それだけのことが、言葉にならなかった。
師範は後でこっそり言った。
「お嬢様には才がございます。続けなさい。ただし、お静かに」
その言葉の意味を、ルナは骨の髄まで理解した。
才があっても、声を上げてはいけない。情熱は、誰かに許可された範囲でだけ燃やしなさい。
それがこの家の、この立場の、ルールだった。
十歳の冬、次兄のアレクシスが旧サラトニア王国の話をしてくれた。
次兄の部屋は本で溢れていた。羊皮紙の匂い。インクの匂い。時代の堆積した、黴と埃の入り混じった空気。
ルナはその部屋が好きだった。
誰も来ない。礼法の師も、母の侍女も、「令嬢らしくしなさい」という声も届かない。ただ本と、それを愛する次兄と、二人でいられる場所だった。
アレクシス・フォン・ラシェンテ。母譲りの漆黒の髪と、父譲りの青灰色の瞳を持つ端正な兄だった。穏やかで理知的で、感情を表に出すことが少ない。だが歴史の話をするときだけ、その目が子どものように輝いた。
「サラトニアにはね、ルナ、千年生きた王の伝承があるんだ」
暖炉が爆ぜた。橙の光が二人の顔を照らした。
「千年を生き、千年を統べた王の話だ。サラトニアの初代国王は――」
次兄の声は、熱を帯びていた。普段の穏やかさが溶けて、その奥にある純粋な炎が滲み出てくるような語り口だった。
千年を生きるということは、どういうことだろう。
愛した人が老いて死に、また愛した人が老いて死に、それを何度も繰り返して。それでも王として立ち続けることは、何を意味するのだろう。
幼いルナには分からなかった。ただ、その孤独の深さだけが、なぜか胸に落ちた。
千年を生きた王と、侯爵家の檻の中に生きる自分では、何もかもが違う。違うはずなのに、その孤独の輪郭だけが、どこか似ているような気がした。
その夜から、ルナは旧サラトニア王国の本を読むようになった。消えてしまった王国の話を読んでいるとき、自分の檻が少しだけ遠くなる気がした。それだけは確かだった。
十二歳の春から、社交の練習が本格化した。
お茶会に呼ばれ、サロンに連れられ、名前も顔も覚えられない令嬢たちと微笑み合う。どの笑顔も本物ではない。どの言葉も本音ではない。
母はその場でいつも完璧だった。どんな相手にも適切な距離感で接し、扇子一つで場の空気を支配する。帝都の名門で磨かれた社交の技が、中央大陸の飛び地の社交界でも遺憾なく発揮されていた。
ルナはそれを見ながら、いつも二つのことを同時に思っていた。
すごい、と。
なりたくない、と。
母は美しく、能力があり、誰もが一目置く。そして――どこまでも「役割」の中にいる。お茶会でも、夫の隣でも、娘の前でも、彼女は常に「侯爵夫人エレオノーラ」であり続けた。
もしかしたら母は、最初から「そう」だったのではなく、「そう」にさせられたのではないか。
その問いの答えを、ルナはずっと知ることができないでいた。
十五歳の秋、廊下を歩いていたとき、母が侍女に話しているのが漏れ聞こえた。
「そろそろルナの縁談も、真剣に考えなければいけないわね。十五ともなれば、釣書の一つも用意しておかないと」
その声が、耳から離れなかった。
釣書。縁談。まるで商取引の帳簿に数字を書き込むように、さらりと告げられた言葉だった。
その夜、ルナは一人で剣を振り続けた。息が上がっても、腕が悲鳴を上げても、振り続けた。
剣を振っているときだけ、自分の体が「自分のもの」だと感じられた。その感覚に、今夜だけは縋りたかった。
十六歳から、縁談の話が具体的になり始めた。
誰それのご子息が、どこそこの伯爵家が、と母の言葉が食卓で飛び交う。父のクラウスは黙って聞いている。長兄のユーリウスは巧みに話題を変える。
長兄、ユーリウス・フォン・ラシェンテ。父に似た茶褐色の髪を持つ、誠実な次期当主だった。領地経営の実務を担い、領民からも信頼を集める兄だった。ルナには陰ながら「困ったことがあればいつでも連絡しろ」と言ってくれていた。
だが次期当主という立場が、その兄の手足を縛っていた。母の意向には逆らえない。それをルナは知っていた。知っていたから、頼りきれなかった。
次兄のアレクシスは、その頃すでに帝都の帝立大学に入学していた。
一番近くにいてほしい人が、一番遠くにいた。
手紙は来た。長い、丁寧な手紙が。
「ルナ、君が何を感じているか、想像するたびに胸が痛い。でも君は強い。君が思う以上に、君は強い」
その手紙を何度も読んだ。読みすぎて、折り目が白く擦り切れた。
強い。
強いのなら、なぜ何も言えないのだろう。
食卓で母の話を聞きながら、ルナはいつも下を向いていた。「嫌です」という言葉は、喉の奥でいつも溶けてなくなった。
怖いから、ではなかった。
家のために生きることは、この世界では正しいことだった。トルクス帝国の貴族として、侯爵家の令嬢として、縁談を受け入れることが当然とされていた。異を唱えるルナの感覚の方が、おかしいのかもしれない。
ひょっとして自分は、わがままなだけなのか。
その疑問が、何より重かった。
十七歳の夏、相手が決まった。
帝国内の他領を治める貴族。四十代。寡夫。子どもあり。領地の利権が絡む政略的な婚姻。
それだけの情報が、まるで商取引の契約書のように母から告げられた。
窓の外は青空だった。中庭の花が咲き誇り、庭師が鋏を動かしていた。その音がやけにはっきりと聞こえた。
「……お断りすることは、できないのですか」
母は扇子を静かに閉じた。
「できないわ」
理由も、慰めもなかった。
できない。それが答えのすべてだった。
自室に戻り、鏡の前に立った。プラチナブロンドの髪。青灰色の瞳。侯爵令嬢として作り上げられた、完璧な顔。
その顔が、ひどく他人のように見えた。
十八歳の冬、決定的な夜が来た。
晩餐の場で、婚礼の日取りが正式に決まったと告げられた。
蝋燭の光が揺れていた。父のクラウスは目を伏せていた。長兄のユーリウスは視線を皿に落としていた。母だけが、静かな勝利者の顔をしていた。
ルナは椅子に座ったまま、手のひらを膝の上でにぎった。
声を出してはいけない。感情を表に出してはいけない。令嬢は崩れてはいけない。六歳から叩き込まれた言葉が、頭の中でこだました。
だが。
それよりも深いところから、何かが来た。
炎に似た何か。子どもの頃から、剣を振るたびに感じてきた、あの、名前のない何か。
「……嫌です」
声は出た。自分でも信じられないほど、小さな声だった。それでも、出た。
母が顔を上げた。父が目を開いた。長兄のユーリウスが息をのんだ。
沈黙が落ちた。蝋燭の炎だけが揺れた。
「それは、どういう意味かしら」
「嫌です、という意味です」
その後のことはよく覚えていない。
気づいたら廊下を歩いていた。玄関を出ていた。夜の石畳が足の裏を叩いていた。冬の空気が肺に刺さった。
振り返らなかった。
振り返ったら、戻ってしまう気がした。また「ごめんなさい」と言ってしまう気がした。
だから、走った。冬の夜道を、髪を乱して、ただ走った。
走りながら泣いていた。泣いていることに、しばらく気がつかなかった。
探訪者協会の灯りが見えたとき、ルナは立ち止まった。
扉の前で、一度だけ後ろを振り返った。
闇の向こうに、侯爵家の灯りが見えた。暖かい光だった。愛した人たちが中にいる場所だった。そして同時に、自分を「看板」として育てた場所だった。
どちらも本当だった。どちらも嘘ではなかった。
愛していた。愛しているから、逃げた。
母の声が追いかけてきた。玄関先で、冷たく、静かに告げられた声が。
「三年だけ、好きにしなさい。三年以内に遺物で名を上げなさい。それができないなら、大人しく戻っていらっしゃい」
条件だった。情でも慈悲でもなかった。
ラシェンテ侯爵家の令嬢が探訪者などという道を選ぶなら、それ相応の結果を出して見せなさい、という。ただそれだけの、冷たい取引だった。
それでも、ルナは扉を押した。
重い木の扉が、軋んで開いた。
三年が、経った。
吊橋の手前で土の上に崩れ落ちながら、ルナはその数字を噛み締めていた。
三年間、戦った。遺跡を巡り、遺物を探し、銀級探訪者の名を得た。それでも足りなかった。遺跡の奥に待っていたのは、空白だけだった。冷えた石の感触と、誰かがかつてここにいたという微かな気配だけ。
遺物は、なかった。
期限が、尽きた。
夕日が赤い。吊橋が軋む。堀の水面が揺れる。
ルナはその中で泣いた。
悔しかった。
ただ、悔しかった。
抗えなかったことが、ではない。あの夜、家を飛び出したことを後悔しているのではない。
三年間、全力で走り続けた。貴族令嬢という重荷を背負ったまま、それでも前だけを見て走り続けた。
それでも、届かなかった。
届かなかったという事実が、胸の奥に冷たく沈んでいく。石が水底に落ちていくように。静かに、静かに、取り返しのつかない重さで。
もっと早く動けていたなら。もっと賢く立ち回れていたなら。もっと強ければ。もっと、もっと――。
でも、そのもっとは、もうどこにも存在しない。
三年という時間は、過ぎてしまった。
次兄アレクシスの言葉が、頭の中で鳴った。
――君は強い。君が思う以上に、君は強い。
強かった。本当に、強かったと思う。
でも、強さだけでは届かないものがあった。
あの冬の夜、「嫌です」と言えたとき、何かに勝てた気がしていた。自分の中の、声を飲み込み続けてきた弱い自分に。
でも結局、その一言さえも、現実を変えるには足りなかった。
抗えなかった。戦った。それでも敵わなかった。
その三つが胸の中で重なって、どれが一番苦しいのかさえ分からなくなっていた。
夕空は美しく、それだけがひどく残酷だった。
空は何も知らない顔をして、ただ静かに、赤く燃えていた。
ふわり、と。
何かが、肩に落ちてきた。
最初、ルナには何が起きたのか分からなかった。泣き腫らした目で視線を動かすと、自分の肩から胸元にかけて、見慣れない布地が広がっていた。
布、ではなかった。
法衣だった。
タクミ。この依頼でルナたちと共に行動した男だった。どこか飄々として、感情の読めない目をしている。自分とは異なる世界の論理で動いているような、不思議な人物だった。
そのタクミが、何事もなかったように口を開いた。
「しょうがねぇな……それ、やるよ。温度調整の魔法陣、貴重なんだろ?」
ひどく、さらりとした声だった。
ルナは瞬きをした。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。やる、という言葉の意味が、頭の中で上手く噛み合わない。この法衣を、自分に、くれる、ということか。
それは。
それは、遺物だ。
混乱したまま固まっているルナの隣で、リシェルが息をのんだ。
「……お、温度調整の魔法陣なんて、国宝級です……」
掠れた声だった。
その言葉で、ルナはようやく手を動かした。泣き腫らした目のまま、肩に掛かった法衣の端をそっと持ち上げ、内側を広げる。
布地の裏に、緻密な文様が刻まれていた。幾重にも重なった線が、まるで生きているように走っている。魔法陣だった。どのような術式なのか、その詳細まではルナには読めない。読めないが、それが並大抵のものではないことだけは、長年遺物を学んできた感覚が告げていた。
ゆっくりと、羽織った。
その瞬間、旅で熱を帯びた体から、じわりと熱が引いていった。不快な重さが、静かに、確かに、溶けていく。まるで夜明け前の涼風に全身を包まれたような、穏やかな感覚だった。
間違いなく、遺物だった。
それも、国宝級の。
「そんなことで泣くなよ……ったく」
タクミが言った。
相変わらず、感情の乗らない口調だった。だが不思議と、棘は感じなかった。
「それやるから、さっさとガイウスのとこ行って“あれ”書いてこい」
ガイウスは探訪者協会の長だ。遺物の出処が広まれば、一攫千金を夢見た探訪者たちが殺到する。それを防ぐため、出処を他言しないという契約書を探訪者協会と交わす決まりがあった。
ルナは、また泣き始めた。
止めようとした。止められなかった。
三年間、全力で走り続けた。誰よりも遠くへ、誰よりも前へ。それでも届かなかった。空白だけが待っていた。もう終わりだと思った。
それが。
一人の男の、何でもないような一言で、ひっくり返った。
精一杯やっても足りなかったという事実が、あっさりと、音もなく、覆された。
悔しかった。情けなかった。自分の力で掴めなかったことが、これほど堪えるとは思っていなかった。
でも、それでも良かった。
手段などどうでも良かった。他人の手を借りたことなど、些末なことだった。結果として、道は繋がった。三年という時間は、まだ終わっていなかった。
ルナは法衣の前を、両腕で抱き締めるようにして触れた。布地の感触が、掌に伝わってくる。確かな重さが、確かな温度が、そこにあった。
「……ありが、と……う……」
「……一生……大切に、する……から……」
声にならない声だった。
嗚咽の合間から、どうにか絞り出した言葉だった。
涙は止まらなかった。夕日の中で、堀の水面が揺れていた。吊橋が軋んでいた。空はまだ、美しいほどに赤かった。
ルナ・フォン・ラシェンテは、法衣を抱いたまま、泣き続けた。
上品に、ではない。令嬢らしく、でもない。
ただ、泣いた。
それで良かった。
(経過日数:439日)
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第69話「ルナ・フォン・ラシェンテ」でした。
社交の灯りは、ひどく眩しかった。
けれど視線は、遠くを見ている。
差し出された手を振り払う。
彼女は自分の名で歩き出す。
第70話「窓の外へ」





