第65話 二千年の檻
第65話です。
断崖の底、死の海の奥。
開かずの岩戸の向こうに、それは眠っていた。
終わりを囁く声が、世界の色を剥がしていく。
名も知らぬ恐怖が、今、目を覚ます。
断崖の下は、地の底のように広がっていた。
無数のアンデッドが折り重なり、蠢き、絡み合いながら群れを成している。
終わりの見えない死の海。
その奥で、巨大な岩壁が淡い光を帯び、静かに脈打っていた。拒むようでもあり、守るようでもある。
日はすでに傾きかけている。橙の光が断崖を斜めに切り裂き、影が濃く伸びていく。
「どうする?このまま行くか?」
「時間がないわ。このまま突破するわ」
ルナは即答した。迷いはない。
「リシェル、これからアンデッドを掃討するわ。退霊香の準備をして」
「……は、はい」
リシェルは一瞬だけ息を呑み、すぐに荷物へ手を伸ばした。
「壁はどうやって壊すつもりだ?」
タクミが短く問う。
「雷晶粉を使うわ」
「らいしょうふん……?」
(……サラディン……)
雷晶粉について――
『雷晶粉――雷晶石を砕いて作った粉末だ。乾燥状態では安定しているが、水を加えると瞬時に爆発し、青白い雷光とともに周囲を物理的に破壊する。あくまで物理破壊を目的とした消耗品である』
(爆薬みたいなものか……嫌な予感がするからできれば開けたくないんだが)
「行くわ」
ルナは淡々と告げた。
前衛はすでにロイドとタクミに割り振られている。
「よっしゃ、行くぜ!」
ロイドが一気に地を蹴った。
竜骨刃が弧を描くたび、死の塊が線となって断たれていく。
その背後をタクミが縫うように走る。踏み込みは浅い。ただ触れた傍から骨も肉も区別なく崩れ落ちた。狙いはない。通過する動きが、それだけで致命的な破壊を撒き散らす。
群れは形を成す前に崩れ、戦いと呼べる均衡は一瞬も訪れなかった。
やがて動きが絶え、音が消える。あとに残るのは崩れた肉塊の山だけだった。
終わりは不自然なほど静かだった。
「リシェル。退霊香を焚いて」
「……は、はい」
乾いた匂いとともに立ち昇る煙が、土と骨の境界を曖昧に溶かしていく。リシェルは煙を円を描くように地面へ刺していった。
ルナは小袋を取り出し、岩壁へ迷いなく粉を撒く。
「爆破するわ。離れて、危険よ」
「リシェル、お願い」
「……はい」
リシェルが詠唱を紡ぐ。空気の質が変わった。
――「水突の法」
螺旋を描く水流が岩壁へ叩きつけられる。
直後、青白い閃光が視界を灼いた。遅れて衝撃が全身を叩き、砂塵が世界を塗り潰す。
風だけが耳に残った。
砂塵が晴れる。
「……そんな……」
岩壁は、傷ひとつなくそこに在った。淡い光を返しながら、黙として立ち塞がっている。
沈黙が落ちる。
「……雷晶粉でも壊れないなら。諦めるしか、ありません……」
リシェルの声は乾ききっていた。
二人は動かない。壁だけが、揺るぎない現実として眼前にそびえている。
「しょうがないな。どいてろ」
(開けたくないんだが……)
タクミが前に出る。
「無理よ……。いくらあなたでも……」
ルナの声が途中で途切れる。
タクミは巨壁の前に立った。距離はない。腰を落とす。空気が張り詰める。右腕を引き絞る。
短い呼吸。
「フンッ!」
拳が叩きつけられる。
――ドゴッ!
鈍い衝撃音。
――ピシ……
細い亀裂が走る。
「フンッ!」
さらにもう一撃。
――ドゴッ!
――ピシ……
衝撃が腕を跳ね返した。
「がッ……!」
肩に重い痺れが突き抜ける。骨の感触が内側で崩れるのを感じた。腕から力が抜け、だらりと垂れ下がる。
「いってえ……」
「だ、大丈夫なの!?」
ルナの声が揺れる。
タクミはバックパックを開け、かんめい草を噛み砕いた。苦味が舌を刺し、痛みが潮のように引いていく。
「そろそろ退霊香の効果が切れるわ。悔しいけど……帰るしかないわ……」
(どういう事だ?硬化能力より硬いのか、この壁?)
(……サラディン……)
意識が沈む。
硬化能力の限界について――
『――限界など存在せぬ。ただ、この世に完全なる防具はないのと同様、完全なる盾もまた存在せぬというだけのこと。硬化とは、己が身を鋼に変える技にあらず。衝撃を全身の表皮で受け止め、一点に留めず拡散させる法なり。されど、拳を打ち付けた対象があまりにも硬き場合――その衝撃は拡散する間もなく、来た道をそのまま返ってくる。例えるならば、水面に投じた石が波紋を描く前に、水面そのものが鋼であったならば――石は砕け、飛沫は投げた者の手を穿つのみ。ゆめ心得よ。力とは、通す先があって初めて力となる。通す先なき力は、己が身を砕く鈍器に変わる』
タクミは一度、地に座り込む。
「……つまり、あまりに硬い物を叩くと、逃がしきれない衝撃が返って来るって事?」
「そういうのは最初に言っとけよ!」
立ち上がる。壁との距離を取る。
「そういう事なら」
走る。
加速した全身を、そのまま壁へと叩きつける。
(全身硬化!)
――ドゴォオオ!!
衝撃。弾かれる身体。強引に着地する。
「まだ壊れないか」
言葉の途中で変化が起きた。
――ピシ……
――ピシ……ピシ……
亀裂が枝のように広がっていく。
――パリッ……
――パリンッ……
硬さが砕けたのではない。構造そのものの理が崩れていく音だった。岩壁の表面がガラスの破片のように弾け飛ぶ。
「あ、開いたわ!」
中は空洞だった。
そして、そこに在ったもの。
人の形を模してはいる。だが違う。輪郭だけが青白く透け、地に触れず浮かんでいる。存在が空間に溶け出しているかのようだった。
声が響く。いや、声ではない。骨の髄に直接、震動として届く何かだ。
それはゆっくりと、空洞の闇から滲み出るように現れた。
『……れ、……れ、……れ、……れ』
世界から色が抜けていく。音が遠のく。感情が根こそぎ剥がされ、恐怖という概念すら手の届かない彼方へ押し流されていく。ただ立ち尽くすことだけが、生に許された唯一の所作だった。
「ヤバい、離れろ!」
タクミの身体が本能的に反応した。
これは敵ではない。かつて相対した何者とも、土台が違う。認識そのものを侵す、“触れてはならない予感”だ。
『……われ、……われ、……われ、……われ』
ロイドの膝から力が抜け落ちた。リシェルは祈るような姿勢のまま、糸の切れた人形のように崩れていく。
『……終われ、……終われ、……終われ、……終われ』
意味はない。言葉ではない。ただ終わりを告げる波動だけが、存在の輪郭を削り取っていく。世界の縁が、そこで途切れた。
「あ……あああ……」
ルナが膝をつく。
「が、ガウル!」
叫びは掠れ、声にならない。
銀の閃光。身体が引き摺られるように後退する。
「た、助かった……」
タクミは乱れた息を吐き、ガウルの首をひと撫でた。
断崖を見遣る。
岩戸の前に、三人が倒れている。
そして青白い“何か”が、そこに浮かんでいる。
その背後に、もっと深い“何か”の気配がある。
見てはならないものの輪郭が。
薄皮一枚を隔てて脈打っている。
――そんな錯覚を、タクミは振り払えなかった。
(経過日数:432日)
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第65話「二千年の檻」でした。
倒れた三人。揺らめく影。
岩戸の奥へと続く闇は、あまりに深く、あまりに静かだった。
まるで何かが、息を殺して待っているような。
タクミはまだ、その沈黙の意味に気づいていない。
次回、第66話「名も無き継承」





