第57話 探訪者の街ラシェンテ
第57話です。
砂と森を越え、ただ歩き続けた。
数えることをやめた日々の先に、ようやく人の灯りが見える。
これは、四百二十日目の記録。
終わりではなく、始まりの足音。
進むごとに、巨木から木へ。木から細木へ。
細木から低木へと、森は静かにその姿を変えていった。
砂漠を抜けたあの日と同じだった。
明確な境目はどこにもない。
ただひたすらに歩き続けるうちに、気がつけば景色が変わっている。それだけのことだった。
あれから、さらに三日が経過していた。
夕刻。
橙色に染まり始めた空の下、目の前には、横たわる巨大な影があった。
「牛……だよな……」
牛だった。
体長は二メートルほど。灰褐色の短い体毛は、ところどころ土や血で固まっている。左右に広がる太い角は、一本が根元から折れていた。
そして——首元が、深く抉られていた。
血の匂いは、まだ新しい。
ガウルが仕留めた。
(……サラディン……)
低木地帯に生息する魔獣の知識が、記憶の底から浮かび上がる。脳裏に、名を引き当てる。
『グラスホーン』
『危険度:中』
『体長:2.0m〜2.8m』
『特徴:灰褐色の短毛。左右に広がる太い角。温厚だが、縄張りや幼獣に近づけば猛突進。方向転換は苦手』
「ガウル、この牛、グラスホーンって言うらしいぞ」
ガウルがこちらをじっと見つめている。早く食おうとでも言いたげな、いつもの目だ。
「わかったわかった、じゃあ飯にするか」
周囲の枯れ木を集め、手慣れた手つきで焚き火を起こす。焚き火の準備はすっかり板についていた。
「異世界牛焼き肉か……」
ぽつりと呟きながら、ナイフを手に取る。
皮と肉の間に慎重に刃を滑り込ませ、剥いでいく。
知識は教えてくれる。
血抜きをした方がいい、と。しかし、周囲を見渡しても、肉を吊るせるような高さの木はなかった。
ここはもう、低木ばかりの場所だった。
構わず、肉を切り分ける。分厚く切り出したそれを、手頃な枝に刺し、焚き火の周りに並べていく。
脂が落ち、炎が一瞬大きくなる。パチパチと乾いた音が、静かな草原に響いた。
「ガウル、焼けたぞ。食おう」
「まだ熱いからな、気をつけろよ」
枝から肉を外し、枯れ木の束の上に置く。
ガウルがのそりと起き上がり、近づいてくる。そのままガツガツと音を立てて喰らいついた。
「うまいか?どれどれ、俺も食うか」
かぶりつく。
外側はこんがりと焦げ焼けて香ばしく、内側は予想以上に柔らかい。噛みしめるたびに、肉汁があふれ出る。
「おっ、うまいな、これは牛だ」
確かに、うまかった。
だが——深緑の柩で喰らったあの魔獣の肉のような、脳が焼き切れそうな高揚感は、どこにもなかった。
「ガウル、まだまだあるぞ。食いきれるかな、あれ……」
解体と焼きを交互に繰り返す。
数刻が過ぎた。
「は、腹が……きつい……動けん……」
すっかり日は落ちていた。ガウルも満足したのか、とっくに丸くなって目を閉じている。
その大きな体を枕代わりに、目を閉じた。
翌朝。
残った肉を焼く。
しかし、すべてを食いきることはできなかった。
「流石に食い切れなかったか……」
遺骸は三分の一ほど残っている。ほとんどはガウルが食った。それでも量が多すぎた。
両手を合わせる。
奪った命への礼。そして、食い切れなかったことへの謝罪。
日本人としての性は、まだ消えていなかった。
短い休憩の後、出発する。
ほどなくして、地面の色が変わった。
踏み固められた土。
不自然に倒れた草。
明らかな違和。
「……道だ」
整備されているわけではない。
石畳でもない。
ただ、人が繰り返し往来した痕跡——人工の道だった。
「み、道だ!見ろガウル!ここは人が通ってるぞ!」
足が自然と速くなる。
胸の高鳴りを抑えきれない。
砂漠を抜けた時よりも、森を抜けた時よりも、ずっと強い高揚が全身を駆け巡る。
視界の先に、低い外壁が見えた。
外壁の周囲には堀。入口には吊り橋。そして——人影。
走る。
走る。
吊り橋の前まで、たどり着く。
向こう側に、門番が一人立っていた。
金属の胸当てを付け、手には短槍。
開口一番。
「あんた、人だよな?」
「な、なんだ……?」
警戒したように眉をひそめる。
「人なんだよな?」
「あ、ああ……人だが……魔獣にでも見えるか……?」
困惑した顔。
「やっぱり人だよな。ならいいんだ。ここ通ってもいいのか?」
「あ、ああ……」
門の奥を見る。
人が往来している。
声がある。生活の音がある。靴音。話し声。笑い声。
鉄を打つ音まで聞こえてくる。
「ここが……オルデか……」
「何言ってんだあんた、ここはラシェンテ。探訪者の街だよ」
「え?……オルデじゃない……オルデは近いのか?」
「オルデはここから馬車で一週間だ。それにしても、随分なまってるな。どこから来たんだ?それに……」
門番の視線が、ガウルに向かう。
「立派なキャリア・ハウンドだな……白銀の毛並なんて初めて見るよ……」
ガウルは後ろ足で顔をかいていた。
「ん……ああ……ちょっと田舎に住んでてな」
「あんたも一攫千金を夢見て出てきた口か」
「ん……ああ……まぁそんなところだ。ひとつ聞きたい事があるんだが、素材を買い取ってくれる所はあるか?」
門番が顎をしゃくって、街の中央を指さす。
「あそこの一番デカい建物があるだろ?あそこか探訪者協会に行けば買い取ってくれると思うぞ」
「探訪者協会ってのはどこだ?」
「そこだよ」
門番が示したのは、正面にそびえる建物だった。
人の出入りが絶えない。
冒険者風の男女が、次々と中へ入っていく。
「おお、あそこか。助かった。あんた、名前は?」
「……俺はコルトって名前だ」
「そうかコルト。俺はタクミだ。色々教えてくれてありがとう」
「あ…ああ……悪さはするなよ」
歩き出す。石畳を踏む。
硬くて平らなその感触が、ひどく懐かしく感じられた。
声が交わる。匂いがある。
熱がある。
ようやく——ようやく。
人のいる場所までたどり着いた。
数えることすらやめた日々が、一瞬のうちに思い出される。灼熱の砂漠。陰鬱な森。絶望と、孤独と。
それでも、歩き続けた。
歩く以外に、できることがなかった。
目の前を、誰かが通り過ぎる。こちらの様子を一瞥して、また通り過ぎる。特別なことではない。ただの日常。ただの、当たり前の一日。
それが、あまりにも尊く見えた。
深く息を吸う。
石鹸の匂い。肉の匂い。酒の匂い。汗の匂い。
どれもこれもが、生きている証だった。
そして、一歩を踏み出した。
もう、砂ではない。
もう、腐葉土ではない。
これは、人が歩くために人が作った、石畳の道だ。
新しい旅は、ここから始まる。
(経過日数:420日)
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第57話「探訪者の街ラシェンテ」でした。
これにて第2章「古代樹林脱出編」は完結です。
彼の旅はまだ終わらない。
次回より第3章「ラシェンテ編―探訪者の街―」が始まります。
砂漠で拾い上げた遺物。森で得た薬草と、極彩色の羽。
それらはただの収穫ではない。八百年という時の積層が沈んだ重み。街の秤では、到底量りきれない。
彼はまだ知らない。
背負ってきた荷が、どれほどの価値を孕んでいるのかを。
次回、第58話「オルデン商会タイフ」





