第55話 灰の魔道書――神冥輪法抄
第55話です。
深き森の奥に、時は眠る。
朽ちた書物が語るのは、ある魔道士の孤独と狂気の軌跡。
頁を開く者は、己の運命をも開くことになる。
これは、その一片の記録である。
丸一日、歩き続けている。
歩幅は大きく、速い。
だが、息は乱れない。
疲れはない。
スパインボアの肉を口にしてからというもの、あの異様な状態が続いていた。
眠気は遠い。
視界は冴え渡り、森の奥行きまで透けて見える。
血が熱い。
身体の内側から、尽きぬ力が溢れ出てくる。
それなのに――。
緊張だけが、消えない。
深層に入りたての頃を思い出す。
音のない世界。
命の気配が消えた樹海。
今は違う。
風が鳴る。枝が軋む。
遠くで何かが動く。
森は、音を取り戻しつつある。
それでも。
胸の奥に沈んだ鉛のような不安が、歩みを軽くはしてくれなかった。
「ガウル……索敵は頼むぞ……」
返答はない。
ただ、白銀の毛並みがわずかに揺れ、サファイアブルーの瞳がこちらを一瞥する。
理解している。
(デヴァウアは、俺たちと反対方向に消えた……)
(大丈夫だ……落ち着け……)
自分に言い聞かせる。
足は止めない。
休憩も取らない。
(もう少しで日が落ちる……行けるところまで……行く……)
進むごとに、森は生を取り戻す。
中層域に出没する魔獣の痕跡も、いくつか確認している。
そのとき。
ガウルが止まった。
警戒――ではない。
前方。
巨木の根元。
何かがある。
森は薄暗い。
だが、そこだけが、わずかに明るい。
ドーム状に。
ほんの微かに。
(なんだ……あれは……?)
近づく。
境目は見えない。
ただ、空気が違う。
そして――。
――ブォン。
何かを、通過した。
「な、なんだ!? ガウル、いるか!?」
横にいる。
明るい。
まるで、照明を灯したかのような白光。
正面。
巨木の根元が、長方形にくり抜かれている。
人工物。
「人が……いるのか……?」
(そんなバカな……近くにはデヴァウアがうろついている……こんな所に人が住める訳がない……)
「ガウル、索敵頼むぞ」
鼻先を軽く当てる。
異常なし、という合図。
長方形の入口を覗く。
石階段。
下へ続いている。
慎重に降りる。
一段、一段。
階段の先。
小さな空間。
正面に、石壁。
そして――。
大きな魔法陣が、淡く発光している。
「扉……?」
取っ手はない。
(……サラディン……)
知識の奔流を探る。
記憶を引きずり出す。
魔法陣の意味。
だが。
『…………』
「サラディンでも分からないのか……」
指で壁を叩く。
感触は脆い。
壊せる。
「あまり音は立てたくないが……やるか」
「ガウル、少し下がっててくれ」
ガウルが後退する。
腰を落とす。
右拳を引き絞る。
突き出す。
「硬化!」
――バガァッ!
石が砕け、粉塵が舞う。
待つ。
粉塵が収まる。
やがて視界が開けた。
小部屋。
石造り。
奥行き七、八メートル。
幅は三メートルほど。
机。椅子。
本棚。
そして、静寂。
「なんだ……ここは……?」
机の上は埃にまみれている。
開かれたままの本が一冊置かれている。
埃を被っている。
指で払う。
舞い上がる灰色の粉。
「ゲホッ……」
三センチほどの厚み。
表紙には、こう刻まれていた。
――『神冥輪法抄』――
「しんめいりんほうしょう……?」
頁をめくる。
紙は黄ばみ、だが朽ちてはいない。
『第一章。禁呪の本質について。
三つの法あり。
神法、冥法、輪法。
是らは呪なり。祝福にあらず。
各々、主たる因果に連なり、各々、対価を求む。
神法は創造主の眼を開き、冥法は冥界主の声を賜い、輪法は輪廻主の理を書き換える。
されど、対価なくして得るものは、何一つとして無し』
文字は厳格。
冷たい。
そして。
はっきりと書かれている。
禁呪――と。
「禁呪……」
頁を進める。
『第二章。神法の限界。
肉体を捨てよ。
然すれば霊体を得ん。
創造主の言葉を理解し、神根に干渉し、第八階梯に至らん。
対価は供物。儀式に五年を要す。
得られる時は千年。されど、其の後には必ず終焉が訪れる。
我、既に此の道を歩みたり。然れども、足りず』
霊体。
「……亜神……」
喉が乾く。
更に頁をめくる。
『第三章。冥法の呪縛。
殺せ。殺せば殺すほど、時を得る。
冥界主の声は二つなり。「送れ」「殺せ」。
此の二つ以外、決して聞こえず。
対価は憎しみ。生ある全てへの、底無き憎しみ。
即時に発動す。然れども得られる時は僅かに六百年。
我、此の法を最も後悔す。何故なら――
此の声は、永遠に止まぬからだ』
頁の端。
走り書き。
「送れ」「殺せ」「送れ」「殺せ」――
乱れた筆跡。
何度も。
何度も。
「……っ」
背筋が凍る。
次の章。
『第四章。輪法の孤独。
他人の魂を己が形に書き換えよ。
輪廻主の言葉を理解し、輪根に干渉し、第六階梯に至らん。
儀式は二年。然れども依代の選定に、五十年より二百五十年を要す。
対価は無し。書き換えられた魂の行方は、誰も知らぬ。
得られる時は無限。されど、依代は生身の人間なり。
其の身の滅びと共に、再び選定の旅に出ねばならぬ。
孤独、これに勝る対価は無からん』
「転生の……魔法……」
指が震える。
さらに頁を進める。
そこからは、記録。
『第五章。実験の記録――神法と冥法の交差。
ここに、一つの試みを記す。
神法は偉大なれど、対価の供物が重すぎる。
冥法は即刻なれど、声が精神を蝕む。
故に我、両者を掛け合わせることを試みたり。
供体は二名。我が側近、デン・ヴァウアー及びロアン・イロア。
神法の儀式を不完全な形で施しつつ、冥法の殺戮の理を並列に刻む。
即ち――神の視座を、冥の声で駆動せしむる法』
心臓が、強く打つ。
読み進める。
『結果を記す。
霊体には至らず。
肉体を保持したまま、形は歪み、異形と化す。
冥界主の声は「送れ」「殺せ」のみ。
供物は不要。
殺戮を続ける限り半永続。
精神は失われる。
此の法は失敗なり。
神法の霊体化を経由せずして、冥法の声のみが勝った。
両名、人を辞め、魔獣と化せり。
我、此の記録を残す。
誰か、此の先に進む者があれば、我が過ちを踏むな。
神法を中途にて放棄するなかれ。
霊体にならずして、声に抗えぬ』
末文。
『此の書を読む者よ。
もし貴様が、我と同じ道を求める愚か者であるならば
せめて、供体は自分一人にしておけ』
数頁が引き裂かれている。
最後の頁。
掠れた文字。
「送れ」
「殺せ」
――止まぬ――
恐ろしくなり閉じた。
裏表紙に何か書かれている。
『我は灰の魔道士。
マグナル・アウレリウス・サラトニア。
されど、それも偽りの名。
真の名は、もう思い出せぬ』
「マグナル……たしか……サラトニア王国の初代国王……最初の亜神……」
「なぜこんな、森の奥に……」
辺りを見回す。
本棚の本は朽ちている。
本をバックパックに慎重にしまう。
「まぁいい、悠長にはしていられない」
「ガウル、行くぞ」
階段を上がり、足早に歩き出す。
タクミはまだ知る由もなかった。
灰の魔道士。
この者が全ての元凶であることを。
そして、その魔道書を携えたことが、やがて彼自身の運命を大きく変えていくことになるとは――。
(経過日数:412日)
◇
【補足:法抄とは】仏教用語で「教えや経典の要点を抜き出して書き記した書物」を指します。
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第55話 「灰の魔道書」でした。
閉ざされた森の奥に漂う魔の記憶。
灰の魔道士の残した知識は、時を越えて恐怖と可能性を宿す。
タクミの歩みは、今や単なる探検ではなく、運命の奔流へと変わりつつあった。
次回、第56話「狂王録――千年王マグナル」





