第50話 古白銀狼
第50話です。
深い森の底で、ひとつの時が動き出す。
朽木に刻まれた九百年の孤独が、今、そっとほどけていく。
これは、忘れられなかった忠誠と、その先にある物語。
眠れなかった。
天井の裂け目から、細い陽光が差し込んでいる。
身動きひとつできないまま、朝になっていた。
緊張は、解けない。
気配はない。
だが、外には出られない。
絶対に勝てない。絶対に手を出すな。
本能が、そう告げている存在が、まだ近くにいる。
黒いワイバーンと遭遇したときも、同じだった。
サラディンの知識がなくとも分かる。
あれは、別次元の存在だ。
こちら側は、ただの餌でしかない。
幸い、朽木の中だ。
人ひとりが通れるほどの隙間しかない。
入ってはこられない。
「いなくなるの、待つしかないよな……」
籠城。
ひたすら、待つ。
道中、肉を喰らってきた。
幸いな事に干し肉もまだ残っている。
それに、なぜか腹が減らない。
サンダーレイブンの肉を喰ってからだ。
もう五日、何も口にしていない。
それでも、空腹は訪れない。
高揚感。眠気もない。
鼓動が早い。胸の内側で、何かが脈打っている。
力が溢れる。
底の見えない泉のように。
「待つしかない。ここは待ちに徹する。判断を誤るな」
その夜。
白銀の狼は、現れた。
朽木の外。
二十メートルほど先。
巨大根の上。
昨日と同じ場所だ。
月明かりもない。
深い闇の底で、白銀の毛並みだけが淡く浮かぶ。
微動だにせず、ただこちらを見ている。
深いサファイアの瞳。
底に沈んだ色は、どこか――遠い。
瞬きひとつ。
次の瞬間には、もういない。
風も立たず、音もなく。
消える。
二日目の夜。
同じ刻限。
空気が、わずかに張り詰める。
気配はない。
だが、いると分かる。
視線が、先に届く。
朽木の隙間から外を窺う。
巨大根の上。
昨夜と寸分違わぬ位置。
同じ姿勢。
同じ静寂。
ただ、こちらを見ている。
動かない。
瞬きすら、ほとんどしない。
時間だけが、音もなく積もっていく。
やがて――瞬きひとつ。
白銀の狼は夜に溶ける。
消えた。
三日目。
背筋を撫でる、あの静かな圧。
森が息を止める。音が、落ちる。
見れば、そこにいる。
わずかに、首を傾けていた。
確かめるように。探すように。
それでも、近づかない。
視線だけが、揺れない。
長い沈黙。
そしてまた――瞬きひとつ。
消える。
同じだった。
現れては、見るだけ。
ただ、静かに。
四日目の朝。
グラハムの日記を思い出す。
「まさかな……」
タクミは再び、サラディンの知識へ沈む。
(……サラディン……)
長いたてがみ。
サファイアブルーの瞳の狼――。
『キャリア・ハウンド。体長一・二メートル前後。分類は使役魔獣、半魔獣種に属す。性質は温厚・従順、かつ極めて持久力が高い。外観は筋肉質ながら無駄のない体躯。雄個体は長いたてがみを持つ。背骨に沿って鞍状の天然骨板が発達し、そこに専用ハーネスを固定することを得る。毛色は灰褐色を主とし、森林地帯にて目立たず。瞳は澄んだサファイアブルー、高い知性を感じさせる』
喉が、ひくりと鳴る。
「……まさか……九百年だぞ。そんなバカな話、あるわけがない……」
白銀の狼。
あの目。
哀しみをたたえた、あの深いまなざし。
グラハムの、キャリア・ハウンドなのではないか。
だが、あり得ない。
九百年だ。
生きられるわけがない。
そのとき、胸の奥の熱が強く脈打った。
サンダーレイブンの肉を喰ってから、身体がおかしい。
疲れない。眠くならない。
力が溢れる。
もし。
深層の魔獣を喰らい続けたとしたら。
九百年。
「……そんなバカな……ありえないだろ……」
四日目の夜。
干し肉を、朽木の外にそっと置く。
指先が土から離れる瞬間まで、神経を張り詰める。
すぐには何も起きない。
闇は、ただ静かだ。
隙間から目を凝らす。
瞬きすら惜しい。
次の瞬間――そこにあったはずの干し肉が、消えている。
落ち葉は乱れていない。
足跡も、影もない。
起きていた。
確かに、目は開いていた。
だが――まったく、捉えられなかった。
五日目の夜。
干し肉を外へ置く。
視線は外さない。
白銀の狼の姿は見えない。
それでも――。
次の瞬間、もうない。
落ち葉も鳴らず。
風も動かず。
音もない。
気配もなかった。
六日目の夜。
残りすべての干し肉を、外へ置く。
これで尽きた。
覚悟を決める。
来るなら来い。もう隠れ続けはしない。
闇が続く。
森は静まり返ったまま、何も起きない。
やがて――
天井の裂け目から差し込む光が、わずかに白む。
夜が明けた。
息を整え。
ゆっくりと、隙間から外を見る。
いる。
朽木のすぐ外。
白銀の狼が、丸まっている。
眠っているのか。
それとも、起きているのか。
かすかな陽光を受け、毛並みが柔らかく光を弾く。
近い。
手を伸ばせば、届きそうな距離。
喉が、震える。
「……おまえ……グラハムのキャリア・ハウンドなのか?……」
白銀の狼が、ゆっくりと顔を上げる。
こちらを見る。
サファイアブルーの瞳。深く、澄み切って、それでいて——どこか遠くを見ている。
あまりにも悲しい瞳だった。
覚えている。そう思った。
九百年。人の温もりを、この狼は忘れていない。
人に育てられた温もりを。
グラハムと生きた、その全てを――。
誰もいない。
魔獣しかいないこの深層で。
ただひとり。
覚え続けている。
タクミは、ガントレットを外し地面に置いた。
ゆっくりと近づく。
朽木の隙間から、手を差し出す。
震えている。怖い。
だが、それ以上に。
確かめたかった。
白銀の狼も、ゆっくりと近づいてくる。
牙は見せず、唸りもせず。
ただ、静かに。
そっと。
そっと。
頬を、手に当ててきた。
温かい。
「……そんな……」
声が、崩れる。
涙が、溢れ出る。
止まらない。
「……そんなバカな話あるかよ!……」
「……九百年だぞ!……」
涙は。
止まらない。
「……九百年も……」
「……ここで……」
待ち続けたというのか。
主人の死んだ、この場所で。
涙で。
視界が歪む。
「……そんな……」
「……そんなバカな話……」
その場に崩れ落ちる。
土が膝を噛む。
そのとき。
白銀の狼の瞳から。
一粒の涙が落ちた。
地面に、静かに染み込む。
胸が。
苦しい。
言葉が。
出ない。
涙は。
まだ止まらない。
ただ。
そっと。
そっと。
手を当てる。
「……一緒に……」
「……行くか?……」
掠れた声。
白銀の狼は、ゆっくりと立ち上がる。
天を仰ぐ。
そして。
遠吠え。
深緑の柩に、澄んだ声が響く。
悲しみを溶かすような。
九百年の孤独を解き放つような。
長い、長い遠吠え。
意味が分かったのか。
それとも、ただの偶然か。
だが。
タクミには、分かった。
これは、終わりではない。
九百年の孤独が、今、解けたのだ。
白銀の狼は、もう一度こちらを見る。
悲しみは、薄れている。
そこにあるのは――わずかな光。
古き白銀の狼。
名もなき、キャリア・ハウンド。
森の底で、主人を失い。
それでも、生き続けた獣。
タクミは、朽木の外へ出る。
もう、逃げない。
白銀の狼が、隣に立つ。
体温が、すぐそこにある。
深緑の柩は、生きている。
そして、飢えている。
だが。
もう、ひとりではない。
九百年越しの忠誠が、今、新たな主を選んだのだ。
裂け目から差し込む朝日が、森の底をほのかに照らす。
孤独は、終わった。
(経過日数:398日)
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第50話「古白銀狼」でした。
朝の光が、朽木の隙間から差し込む。
白銀の狼の隣に、新しい影がひとつ並んだ。
孤独は終わり、旅が始まる。
次回、第51話「咆哮の破壊獣」





