第49話 無銘の魔獣
第49話です。
森は沈黙している。
だが、静けさは安全を意味しない。
深緑の奥には、まだ名のない気配が眠っている。
それを知る者は、もういない。
巨木に硬化した指を走らせながら、思い出していた。
「……まじでうまかったな、あの肉……」
喉の奥に、あの熱がよみがえる。
言葉にした途端、唾液がじわりと滲んだ。
サンダーレイブンの肉。
歯を立てた瞬間にあふれ出す肉汁。濃い旨味。噛むほどに広がる甘み。脂が舌の上でとろけ、飲み込んだ後も長く余韻を残す。
そして――内側から何かが湧き上がるような感覚。
錯覚ではない。
歩き続けているのに、疲労がない。
足が重くならない。
息も乱れない。
まるで身体そのものが、何かに満たされているかのようだった。
沼の朽木で一日を過ごした。
腹が裂けるほど肉を食い、水を浴びた。
気は確かに軽くなっていた。だが、それだけでは説明がつかない。
無尽蔵に湧く力。
「やばい成分でも入ってたりしてな」
呟きながらも、足は止めない。
むしろ、いつもより速く、軽やかに前に進んでいく。
極彩色の羽。
魔獣避けの効果。
幼い頃にやっていたゲームでも、似たような仕組みはあった。弱い魔物が寄り付かなくなる――その程度の物だろう。過剰な期待はしていない。
ただ、変わらず慎重に歩き続ける。
期待と警戒は、別のものだ。
羽は二十枚。一枚一枚は大きい。
だが羽だ。軽い。
バックパックから少しだけ先端がのぞいている。
極彩色が、闇の中でかすかにきらめく。
かんめい草も入っている。荷物はもう入らない。パンパンに膨らんだそれが、背中でずしりと重い。
「あった、朽木だ」
遠目でも分かる。枯れた色。乾燥した木の色。
あたりの巨木たちとは明らかに異なる、生命の抜け落ちた佇まい。
沼から三日歩き続けていた。
移動中、魔獣には遭遇していない。
進むごとに、日に日に静寂さが増し、小動物さえほとんど見かけない。
中層で見た魔獣の気配も、まったくない。
羽の効果なのか、それとも深層の空気そのものが変わっているのか。
ひさぶりの朽木。
穴は空いていないが、わずかな隙間がある。
荷物を入れる。
隙間から無理矢理身体を通し、中に入る。肩を窄め、背を丸め、するりと滑り込む。
見上げる。
天井はまばらに抜けていた。
まだ日は高い。
何本か陽光が差し込んでいる。
細い光の帯が、空洞の中で埃を浮かび上がらせながら、静かに揺れていた。
「まぁ、見えそうか」
星が見えるかを確認する。
ギリギリ見えそうだ。
夜空の切れ端が、ここからでもなんとか覗けるだろう。
座ろうとした。
尻に何かがあたる。根だろう。位置をずらす。硬い感触が、尻の骨に当たった。
「ん?」
座ろうとしていた位置。土から何かが顔を出している。腐葉土に埋もれかけた、異質なもの。
「……布? そんなバカな……」
ここは深緑の柩深層。
誰も立ち入った事のない秘境。
ましてや人がいなくなってから八百年も経っている。布など、とうに朽ち果てているはずだ。
慎重に掘り起こす。
指先で、少しずつ周りの土を退かしていく。
見たことのある魔法陣。劣化防止。かすかに光沢を帯びた紋様が、布の表面に刻まれている。
だが、ボロボロだ。
八百年の時を耐えきれず、魔法陣の輝きもほとんど消えかかっている。
何かを包んでいる。
そっと解いていく。
布が裂けないように、慎重に、丁寧に。
中に薄い木箱。
さらに劣化防止の魔法陣。
二重にかけられた守りが、この箱の持ち主の切実さを物語っていた。
崩れないように、そっと開ける。
蝶番がかすかに軋み、古い木の匂いが立ち昇る。
一冊の本が入っている。
皮表紙の本。
縁に金装飾。
色は褪せているが、かつてはさぞ美しかったろうと思わせる名残が、そこかしこに残っている。
めくる。
皮の裏側には入念に劣化防止の魔法陣。
ページの一枚一枚にまで、消えないための祈りが込められている。
そして。
『白金級冒険者ガウル・フォン・グラハム。我が生きた証を、ここに記す』
こう記されていた。
インクは褪せているが、文字はまだはっきりと読める。筆圧の強い、意志的な字だった。
「……これは、日記だ」
最初の頁を追う。
紙の感触は乾ききっているが、不思議と脆くはない。魔法陣がかろうじて守り抜いたのだろう。
『王歴一〇八九年 霜月二日
家督は長兄。次兄も三兄も役目がある。俺には何もない。いや、正確には「席がない」だ。グラハム伯爵家四男。名は立派だが、椅子は用意されていない。なら、自分で取りに行くしかない。王都へ出る。冒険者になると決めた』
「……貴族の四男坊か」
サラディンの知識によれば、それは約九百年前に生きた人物の記録だった。
旧サラトニア王国がまだ栄えていた時代。
深緑の柩が、今よりも少しだけ人が踏み込めた時代。
紙は黄ばんでいるが、筆圧は強い。
文字の一つ一つに、若い決意が刻まれている。
何枚か丁寧に繰る。昇格、失敗、酒場の喧騒。断片的な日々が続く。喜びも、悔しさも、等しくそこにあった。
指先でまとめて薄く束を送る。
ページを繰るたび、かすかに空気が揺れる。
『王歴一〇九五年 暁月九日
銀級。ようやく一人前扱い。家からの仕送りは断った。使えば負けだと思った。自分で稼いだ金で飲む酒は悪くない』
さらに頁を送る。紙の擦れる音。年月が跳ぶ。その間に、どれだけの戦いと日々があったのか。
『王歴一一〇二年 残照月五日
白金級に昇格。名だけなら、もはや家中の誰よりも広く知られているらしい。笑える話だ。父上は何を思うか。誇るか、嘆くか、それとも無関心か。だが、もう戻らぬ。俺は伯爵家の余り物ではない。ガウル・フォン・グラハム。己の剣で名を刻んだ男だ』
空白の頁を数枚挟み、最後に近い厚みへ指をかける。
『王歴一一〇三年 収穫月十五日
深緑の柩遠征隊に加わることとなった。白金級として初の大規模遠征だ。名誉か、それとも厄介事の押し付けか。どちらでも構わない。あの森の奥は未踏域だという。伯爵家の四男という肩書きは置いていく。行くのはただの冒険者、ガウル・フォン・グラハムだ』
頁をめくる。
日付は、ない。
ここからは、おそらく書く余裕もなかったのだろう。文字がわずかに乱れ始めている。
『遠征隊は壊滅した。
無もなき異形。あれは魔獣などではない。災厄だ。皆、喰われた。白金級の誇りも何もかも捨てて、ただ生きるために走った。残ったのは俺とキャリア・ハウンド一頭。名を付けてやればよかったな。帰路、単眼の魔獣と遭遇。戦闘。相討ち。右足は喰われた。膝から下がない。左腕は折れて動かない。少し離れた場所で、ハウンドが単眼の死骸に食らいついている。牙を立て、黙々と肉を裂く。生きるためだ。いい。それでいい。俺の荷を運び続けた獣だ。最後は、自分の腹を満たせ。伯爵家の四男として生まれ、白金級として名を得て、最後は森の底で犬と並んで死ぬ。悪くない。もしこの手帳を拾う者がいるなら、奥へは軽い覚悟で踏み込むな。深緑の柩は、生き物だ。そして飢えている。……寒いな。ハウンド、少し寄れ。悪いが、最後まで付き合わせる――ガウル・フォン・グラハム』
あとの頁は空白だ。
ここで、力尽きたのだろう。
「……ガウル・フォン・グラハム、九百年前の日記。……か……」
サラディンの知識で探る。だが、出てくるのはグラハム伯爵家四男という記録だけ。
深緑遠征の末路は残っていない。
王国の記録は、この先で途切れている。
彼の死も、誰にも知られずに終わったのだ。
「持ってってやるか、人の目につくところまで」
木箱にもどす。
布で包み、丁寧に。
「生きた証を」
バックパックを整理し、慎重に収める。
かんめい草の隙間に、そっと差し込むように。
彼の生きた証が、他の荷に押し潰されないように。
日が落ちてきていた。
陽光が薄れていく。
天井の裂け目から差していた光の帯が、一本、また一本と消えていく。
「眠くないな」
あの肉を食ってから、おかしい。疲れがない。目が冴えて眠れない。身体は休めているのに、意識だけがやけにはっきりとしている。
「やっぱりやばい成分入ってるよな、あの肉。でも、また食いたいな」
眠れないまま、日が落ちた。
闇が、空洞をすっぽりと包み込む。
たまに木の隙間から外を覗く。
細い裂け目に目を寄せて、外の闇を窺う。
何もいない。
静かだ。
深層の夜は、音そのものを森が吸い込んでしまう。
瞬きひとつ。
突如、現れた。
二十メートルほど前方。巨大根の上。闇の中に、ぽっかりと白いものが浮かんでいる。
狼。
闇の中、そこだけが白い。
光はない。
なのに、毛並みは自ら淡く輝く。
月光すら届かぬ深層で、その白さは周囲の闇をほのかに照らし返しているかのようだった。
たてがみは揺らめき、光の粒を散らす。
犬歯も爪も、純白。夜に呑まれない、ただ一つの色。
すべてが白く、すべてが神々しかった。
体長、二メートルほど。深層にしては小さい。だが、その神々しさの前には――大きさなど、何の意味も持たない。
目が、こちらを見ていた。
深い青を湛えた瞳が、まっすぐにタクミを捉えている。
(……やばい、バレてる……)
瞬きひとつ。
消えた。
気配はない。残像すら残さず、ただその場から掻き消えていた。
息を呑む。
(……サラディン……)
知識の奔流から引き出す。
白銀の狼。
『……』
知識にはない。空白。サラディンの膨大な知の海にも、この白い狼だけは存在しなかった。
思い出す。
絶対に逃げろと言われた魔獣。
白銀のワイバーン。
絶望の記憶が、皮膚の裏側で蘇る。
白銀。同じ色。違う生き物のはずなのに、その色だけが記憶と重なる。
(……ただの魔獣じゃない……)
しかも、瞬きひとつで消えるほど速い。目で追うことすらできなかった。二十メートルの距離など、あの狼にとっては無いに等しいのだろう。
(……やばい、殺される……)
本能が避ける。
本能が、逃げろと警告している。
全身の細胞が、一斉に警鐘を鳴らしている。
だが外は夜。ここにいた方が、まだマシだ。朽木の内側には、わずかながらも守られているという錯覚がある。
緊張が走る。
鼓動が、やけに大きい。静寂の中で、自分の心臓の音だけが響く。
ドク、ドク、と、やけに遅く、やけに重い。
気配はない。
だが、いる。
見えないだけで、確実に。視線を感じる。
肌の表面を、何かがかすめるような感覚が消えない。
木の外。闇の奥。どこかで、こちらを測っている。
(……襲ってこない……)
違和感が生まれる。
胸の奥で、警戒とは別の何かが小さく引っかかる。
あの距離なら、瞬きひとつで届くはずだ。二十メートルなど、あの速さなら距離ですらない。逃げ場はない。なのに、来ない。
(……様子見か……)
それとも。試されているのか。
汗が背を伝う。
一筋の冷たい滴が、背骨に沿って落ちていく。
夜風が、朽木の隙間から細く入り込む。
生温い。
深層の夜気は、ひやりとするよりも先に、肌にまとわりつくような不快な温もりを持っている。
だが、身体の奥は熱い。あの肉を食ってから。内側から満ちる力。消えない熱が、腹の底で静かに燃え続けている。
まるで――呼応しているかのようだ。
あの白い狼と、自分の内側の熱が、何かを介して響き合っている。
葉擦れすら止まり、森が息を潜める。
深緑の柩は、生きている。
そして、飢えている。グラハムの言葉が、胸の奥で繰り返し響く。
その奥に、白銀の狼がいる。
気配はない。
だが、確かに、いる。
見えなくとも、感じる。
視線も、存在も、何もかもが。
眠れないまま、夜はゆっくりと更けていった。
空洞の中の時間だけが、引き伸ばされたようにゆっくりと流れていく。
(経過日数:392日)
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第49話「無銘の魔獣」でした。
九百年前の男は、森に名を刻んだ。
そして今、別の足跡が同じ深層に立つ。
白銀は、まだ姿を隠している。
夜は、終わっていない。
次回、第50話「古白銀狼」





