第45話 深緑の柩中層
第45話です。
小さな命は、数で襲う。
大きな命は、存在だけで圧す。
森は段階的に牙を剥く。
ここは、まだ入口にすぎない。
枯れた巨大樹の内部。
その夜。
タクミは浅い眠りから目を覚ました。
やはり、眠れない。
砂漠での生活に身体が慣れすぎたのか。わずかな物音で意識が浮上する。一時間か二時間おきに目を開け、呼吸を整え、耳を澄ます。
枝葉が擦れる音。
遠くで何かが地を踏む振動。
森は静かだ。だが沈黙ではない。夜の闇に溶け込んだ無数の気配が、ひそやかに呼吸を繰り返している。
確認する。
身を起こす。見るのは夜空。星の位置。
巨木の空洞。
天井の裂け目を見上げる。
細く切り取られた黒い空。
その縁を、朽ちた木肌が縁取っている。
探すのは「双つの剣」。二本の剣が交差する星座。その交点を結んだ延長線上。唯一、動かない星。
止まり星。
呼吸を止める。
(あった)
交点の先。止まり星は正面。深い闇の中で、その一点だけが確かな手応えをもって輝いていた。
(合ってる)
正面が北。背が南。右が東。左が西。
進行方向に狂いはない。
「大丈夫だ」
緊張がほどける。声に出したことで、かえって静けさが際立った。
そのまま、壁にもたれた姿勢で眠りに落ちた。
目を覚ます。
裂け目から陽光が差している。
細く、けれど確かな光の帯が、空洞の中の埃をゆっくりと舞い上げていた。
「朝か」
異常なし。それで十分だ。
水を飲む。干し肉を噛む。味はどうでもいい。身体が求める分だけ、機械的に胃へと流し込む。
「方角は合ってる」
荷を背負い、外へ。
深緑の柩。光は弱いが、確かに朝だ。それだけで、足を踏み出す理由にはなった。
その日も印を刻みながら進む。
ガリッ。
幹に傷が入る。鈍い手応えが、まだここが自分の通った道だと教えてくれる。
その時。
左後方。枝が折れる音。
止まる。呼吸を止める。指先の感覚だけを、周囲の空気へと開いていく。
十秒。
二十秒。
(気のせいか)
三歩目。
今度は前方。葉擦れ。かすかな、だが確かな動きの気配。
視線を上げる。
二十メートル先。巨木の根元。影。
低い背。長い四肢。発達した指。
闇に馴染む緑褐色の皮膚が、じわりと湿った空気の中に浮かび上がる。
目が合う。琥珀色。
粗末な棍棒。石のかけらを巻きつけただけの、だが鈍器としての質量を確かに持ったそれが、ゆっくりと持ち上がる。
緑褐色の皮膚。
「ごっごご、ごごうご、ゴブリン!?」
「ゲギャッ!」
低い声。それを合図に、周囲の陰から次々と影が現れる。
腐葉土の匂いに混じって、獣とも違う饐えた臭いが漂ってくる。
一匹、二匹、三匹、四匹。
五匹。
数えた瞬間には、彼らは跳ねるように散開していた。
左右。前方。後方。完璧な包囲ではない。だが、逃げ道は確実に狭められている。
ザッ。
腐葉土を蹴る音。獲物を確かめるように、琥珀色の瞳がタクミの全身をなぞる。腕のガントレット。背負った荷物。そのすべてを、値踏みするように。
敵意は明確。
(来るなら)
先手。
右前方。滑るように移動。湿った土を靴底が噛む。
「シッ!」
足を横から振り抜く。足刀。硬化した足の外側が空気を裂き、頭部に直撃する。
――バガッ!
一匹目。骨の砕ける感触が、足の甲を通じて生々しく伝わってくる。
「フッ!」
右足が地につく。腰を切る。左へ。突き。硬化した拳が胴体中央を捉える。
――ドコッ!
二匹目が後方の巨木に叩きつけられる。
幹に背中を打ち付け、そのままずるずると地面に崩れた。指先が痙攣し、やがて動かなくなる。
包囲が崩れる。右足を軸に左足が弧を描くように回転。包囲の外に出る。
「ゲギャッギャギャ!」
怒号。同時に飛びかかる。
左から棍棒。正面から石斧。右からは飛びかかるように爪。三方向。同時。
濁った眼が、それでも確かな殺意を込めて眼前に迫る。
「フンッ!」
左足を踏み込む。唇が噛み合わさる。力み。腰の回転で振り抜く。上段回し蹴り。
――ヒュッ!
硬化した足が空を裂く。
円を描く一閃。
腐葉土の匂いと、かすかな血の臭いが混ざり合う。
三匹の体が蹴りの軌道上に重なる。
足刀が三匹の胴体を一度に薙ぎ払った。
――バゴォ!
三匹が同時に、蹴りが当たった箇所から切り裂かれ、バラバラにはじけ飛んだ。
飛び散った破片が、湿った土の上に無造作に散らばる。
サラトニア古式戦技。対魔獣戦闘術。
「強すぎね、俺?」
(……サラディン……)
意識を沈める。
魔獣の詳細。
『フォレストゴブリン。危険度、単体にあっては小〜中。集団時は中〜大。体長約一メートル。外観は緑褐色の皮膚、痩躯。石器または粗末な武器を使用す。特徴として、罠・奇襲・待ち伏せを好む。知能は低きも狡猾なり。生息域は中層部。個体数、多し』
「こう言うのは序盤の敵だろ。てかまだ中層か……」
深層の個体は違う。
サンダーレイブン。
ロア。
デヴァウア。
格が違う。名を思うだけで、皮膚の表面がひりつくような感覚が蘇る。
「ここから先だ」
ゴブリンを一瞥。痩せた手足。潰れた眼窩。森の底辺に生きる、それでも確かな捕食者の骸。
弱い。だが数は脅威。ここが単独侵入の限界線。その先が、深層。
歩く。
印を刻みながら。
木々は太くなる。根は絡み合い、光は減る。刻むたびに、木肌の硬さが増していく気がした。
湿った空気。腐葉土の匂い。そのすべてが、より濃密に、より重たく、タクミの周囲を取り巻いている。
遠くで鳴き声。
低い。
腹に響く。
森が揺れる。空気そのものが震えているかのようだった。
止まる。
(違う……)
ゴブリンではない。そんな小さなものではない。
森そのものを変える存在。空気の質を、静寂の意味を、根本から塗り替えてしまうような気配。
黒いワイバーンを思い出す。あの圧。世界が自分を拒絶しているかのような、絶対的な質量の記憶。
この奥にも、いる。
「進む」
一歩。
また一歩。
背後の印は見えない。振り返っても、そこには闇が口を開けているだけだ。
前は闇。けれど、その闇の向こうに、いつか光があると信じるほかない。
それでも。
タクミは歩く。
(経過日数:372日)
砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。
第45話「深緑の柩中層」でした。
小鬼は前座にすぎない。
森はまだ本気を見せていない。
光は細く、空気は重い。
それでも彼は、深層へ向かう。
次回、第46話「中層の支配者」





