第3話 召喚された男
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冷たい夜風が異界の砂を舞い上げる。
七百万人を滅ぼした罪の記憶が語られる。
営業職の男は理不尽な現状にただ困惑し。
絶望の淵で、運命の歯車が回り始める。
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砂漠の夜は、昼とは別の顔をしていた。
昼間あれほど猛威を振るった熱は、嘘のように消え失せていた。
代わりに、骨の髄まで染み込むような冷気が、瓦礫の隙間という隙間から忍び込み、空間を支配している。
崩れ落ちた研究棟の壁の裂け目から、夜風がかすかに吹き込んだ。
さらさら、と。砂が石床を流れる音だけが、静まり返った闇の中で、かそけく呼吸するように満ちている。
タクミはその冷たい石の床に座っていた。
背中を壁に預け、膝を立て、その上にだらりと両腕を置く。視線の先には、自分の腕に乗せた二つの籠手。
水色の宝石を埋め込んだもの。桃色の宝石を埋め込んだもの。どちらも、星明かりを受けて鈍く、沈んだ光を帯びている。
旧サラトニア王国の兵装――らしい。
「……これだけ?」
思わず、声に出ていた。
目の前に立つ蒼い存在――サラディンは、静かに、しかしはっきりと頷いた。
「それだけだ」
あまりに即答だった。風が、二人の間をすり抜けていく。
「いやいやいや」
乾いた笑いが、自然と漏れる。自分を落ち着かせるための、そんな笑いだった。
「普通さ、あるだろ。こういうのって」
指を一本立てる。ひび割れた天井を仰ぎながら、まるで見えない誰かに訴えるように。
「勇者の力」
二本目。
「無限魔力」
三本目。
「レベルアップ機能」
四本目。
「ステータス画面」
五本目。指を開ききった手を、かざすようにして。
「チート」
サラディンは、ゆっくりと首を横に振った。蒼く透き通った輪郭が、かすかに揺らめく。
「ない」
沈黙。
長い沈黙。耳が痛くなるほどの、静けさ。
タクミはゆっくりと天井の崩れた穴を見上げた。
剥き出しになった夜空が、ぽっかりと口を開けている。
星が、異様に近い。手を伸ばせば届きそうなほどに、冷たく、無数に散らばっている。
「……マジか」
それしか出なかった。言葉は、白い息になって闇に溶けた。
漫画やゲームなら、ここで光が降りる。特別な力が覚醒する。世界最強の称号が与えられる。
だが現実は、砂漠。崩れた建物。幽霊のような亜神。そしてガントレット二つ。以上。
「硬化の兵装は何者をも寄せ付けぬ」
サラディンの声は低く、波の底のように静かだ。その響きだけが、やけにこの空間に馴染んでいた。
「まあ……」
肺の奥に溜まっていた熱を、ゆっくりと吐き出す。
「ブラック企業からは逃げられたけどさ」
研究棟の外へと視線を向けた。
崩れた壁の向こうには、夜の砂漠がどこまでも広がっている。
地平線まで、何もない。音もなく、ただ闇が堆積している。
「これはこれで、ハードモードすぎない?」
サラディンは答えない。その沈黙が、何よりも雄弁に事実を語っていた。
タクミは観念したように、その場に仰向けに寝転がった。
背骨に石床の冷気が直接刺さる。天井の穴に切り取られた星空が、視界いっぱいに広がっていた。
「帰れないんだろ?」
視線は星へと向けたまま、静かに問う。返事はない。だが、それが答えだった。
目を閉じる。冷たい瞼の裏で、これまでの人生が走馬灯のようにチラついた。
(まいったな)
営業は辛かった。
だが、そこにはまだ生活があった。コンビニ。終電。スマートフォンの青い光。温かいシャワー。安い居酒屋の騒がしさ。
今は、何もない。あるのは、砂。そして、この体の芯まで冷やす、静寂だけだ。
風が吹く。やがて、その風に混じるように、サラディンが言った。
「水筒を渡しておこう」
空間が揺らぐ。
蒼い光の粒が集まり、複雑な幾何学模様が静かに回転する。
魔法陣だ。
そこから、ぽとりと、無骨な瓢箪型の水筒が落ちた。タクミは反射的に手を伸ばし、それを受け止める。
軽い。
「水成の陣が刻まれている」
「水を生み出す」
タクミは眉を上げ、水筒を見つめた。手のひらの中で、ひんやりと冷たい。
「……それは助かる」
「砂漠に於いて、水は命そのもの」
「食料は?」
「魔獣を狩るといい」
「魔獣?」
聞き慣れない単語に、思わず聞き返す。
「主たるは、サンドワーム。大サソリ。ロドス」
サラディンの声は淡々と、その物騒な名前を並べ立てる。
「……食えるの?」
「食える」
タクミはしばし天井の星を見つめ、それから、ゆっくりと遠い目になった。
「営業マンから魔獣ハンターか」
小さく呟いた自分の声が、妙に遠く聞こえた。
だが、不思議と、絶望はなかった。怖くはある。
自分の身にこれから降りかかる理不尽を思えば、足がすくむ思いだ。
だが、心のどこかが、驚くほど軽い。
(毎日数字に追われるよりは)
自分の生死がこれほど明確な方が、まだ、わかりやすい。
タクミは体を起こし、改めて水色の宝石が埋め込まれたガントレットを手に取った。ずっしりと重い。
「で。使い方は?」
「水色の霊符」
言われた通りに腕にはめる。重い。
しかし、金属が肌に触れた瞬間、じわりと熱が広がり、まるで最初からそこにあったかのように腕に馴染んでいく。
「それは硬化の兵装」
サラディンの声が、わずかに強さを帯びた。
「身をして鋼以上の堅牢を備えしめる」
タクミは目を瞬かせ、自分の拳を見つめる。鋼以上。
「……それ強くない?」
ようやく、口元に素直な笑みが浮かんだ。
「強い」
サラディンのその言葉に、少しだけ、口角が上がる。
「ただし」
サラディンの声が、注意を促すように低くなる。
「全身を硬化せば、もはや動くこと能わぬ」
「欠点あるんかい」
「一部のみに留めれば、身動きは奪われぬ」
「なるほど」
タクミは拳を握ったり開いたりしながら、相槌を打った。
次に、桃色の宝石がついた方を持ち上げる。水色のものより、どこか不思議な温かみがあった。
「これは?」
「形なきものに形を、虚ろなるものに触覚を付与する」
「……?」
「呪われし亜神を消滅させるための兵装」
その一言で、空気が変わった。桃色のガントレットが、急に重くなった気がした。
「ただし、その耐久性は著しく低い」
「わずか数度の使用で不可逆的な崩壊を来す」
タクミは言葉を失い、手の中のガントレットを見つめる。
見た目は軽そうなのに、ずしりと手に食い込む。これには、使命が乗っている。
「重要アイテムじゃん」
「そうだ」
「慎重に使え、と」
「そうだ」
再び訪れた沈黙。風が、崩れた壁の隙間で笛のように鳴る。砂が、さらさらと流れる。星が、無言でまたたく。
タクミはゆっくりと立ち上がった。
関節がポキリと鳴る。外へと歩き出す。
研究棟の入り口だった場所に立つと、どこまでも広がる夜の砂漠が、彼を待ち構えていた。
果てしない世界。理不尽。不条理。説明不足。
だが。
「……まあ」
小さく笑う。それは、自分自身に言い聞かせるような、静かな笑みだった。
「なるようになるか」
投げやりではない。
諦めでもない。ただの事実。
この世界で、自分の足で立って、進むしかないという、ただそれだけの事実だ。
背後で、サラディンが静かに目を閉じた。
八百年。彼はこの場所で、ただ一人、罪を抱え、王国の滅びを見続けてきた。
その永い贖罪の時間が、今、ようやく動き出そうとしている。
砂漠の夜は、変わらず冷たい。
骨の芯まで凍えさせるような、容赦のない冷たさだ。
だが、ほんのわずかに。風の中に、熱が混じった気がした。
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異形の籠手が男の腕に力を与えゆく。
だが敵は神に等しき亜神たちである。
帰路なき砂漠で彼は何を掴むのか。
希望なき生存の物語が今、静かに始まる。
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