第2話 神言語魔法
――――――――――――――――――――
崩れた神殿に夜風が吹き抜けていく。
星々の瞬きは死者の眼差しに似ている。
七百万の罪を背負った亜神と対峙する。
男の生存劇が静かに幕を開けようとする。
――――――――――――――――――――
夜の砂漠は、音がない。
崩れた研究棟の外では、風が砂をさらさらと撫でている。削れた石壁の隙間を通り、乾いた粒が床を滑っていく。
天井は抜け落ちていた。
そこから見えるのは、異様なほど澄んだ星空。
街の灯りも、車の音もない。東京では決して見えない星の数だった。
タムラ・タクミは、石床に腰を下ろしていた。スーツのまま。ネクタイは緩め、靴の底には砂が入り込んでいる。
(……異世界召喚、ってやつか)
口に出すと、妙に軽い。
漫画やゲームで何度も見た設定。トラックに轢かれたり、魔法陣に包まれたり。だが今の自分は、死んだ感覚もない。
ただ、強制的にここに立たされた。現実感がない。
向かいには、亜神サラディン。
半透明の身体を持つ男が、崩れた柱の影に立っている。蒼い光が、ゆらゆらと揺れていた。
「……なあ」
タクミが口を開く。
「さっき言ってた神言語魔法って、なんだ?」
サラディンはわずかに目を細めた。
「神が使う言葉の魔法」
「雑だな」
思わず突っ込む。だがサラディンは気にしない。
「人の言葉とは、根源よりして別物である。神根に触れ、創造主の瞳を啓き、神の言葉を悟る」
ゆっくりと、夜空を見上げる。
「この世界の根源そのものへと届く言葉。『火よ』と発せば、火がその姿を現す。『水よ』と宣らかめば、海が生じる」
タクミは眉をひそめた。
「それ、もう魔法ってレベルじゃないだろ」
「その通りだ」
サラディンはうなずく。風が吹く。崩れた石片が転がる音。サラディンは続ける。
「王歴千百年、今からおよそ九百年前のこと。サラトニア王国の大図書館にて、一巻の典籍が発見せしめられた。――禁術書。その名は、魂刻亜神の法書なり――。その書を著したるは、サラトニア初代国王――マグナル・アウレリウス・サラトニアにほかならない」
タクミは首を傾げる。
「王様が?」
「彼は人にあらず。史上初の超越者。人々はそれを亜神と号し、跪き、奉った。千年王、不死の支配者――神に限りなく近づきし男。これが史実である。その禁術書を、私たちは研究するに至った」
“私たち”。その言葉に重みがある。
「サラトニア王立魔法学院、研究生七名。水のサラディン。氷のサリア。砂のエルナンド。炎のヴァルディア。雷のゼクトル。風のリュシエル。岩のドゥラガン」
七つの名が、夜に溶ける。
タクミは黙って聞く。会社にもいた。優秀で、野心があって、限界を越えようとする連中。成功すれば天才。失敗すれば戦犯。
「私たちは若かった。浅はかだった」
サラディンの声は、遠い。
「世界の真理に指を届かせたいと、願った。神の領域へと手を伸ばしたいと、望んだ」
その結果。
「超越の儀を行じた」
タクミは砂漠を見る。
「人間を超える儀式か」
「そうだ」
サラディンの拳が震える。
「砂のエルナンドが魔法陣を構築した。代償は、この土地にて払うと定めた」
タクミは苦く笑う。
「契約書、ちゃんと読まなかったタイプか」
サラディンは目を閉じた。
「代償は想定の域を超えていた。されど、それを代償と謂うは当たらぬ。これは呪いと同じく——供物なり。サラトニアの王都——その全域が。七百万人の無数の生が。人も獣も、その区別すらも。一切が、砂の粒子へと転じた」
夜風が強く吹いた。
砂が舞い、足元を削る。タクミはその砂を見下ろす。
これはただの砂ではない。都市一つ分の墓標だ。
「爆風は、世界の果てまでも吹き荒れた。これこそが“厄災”。北方の大陸にて、かく称されていると聞き及ぶ」
沈黙。長い沈黙。タクミはゆっくり息を吐いた。
「……で?」
現実的な問いを投げる。
「それで罪悪感に耐えられなくなった」
「そうだ」
即答だった。
「亜神など——この世界にあるべきではない。あってはならぬ存在なのだ」
蒼い身体が揺れる。
「故に、君を召喚した」
「いや、俺営業マンなんだけど」
「知っている」
「戦闘経験ゼロだぞ」
「知っている」
「能力もない」
「……その通りだ」
タクミは苦笑する。
「それで王国を滅ぼすような亜神と戦えって? 詰んでない?」
「武器に関しては、不足なく存在する」
サラディンが指先をかざす。
空中に、水面のような波紋が広がる。そこから現れたのは——二つの籠手。
重厚な金属。片方には水色の宝石。もう片方には淡い桃色の宝石。微かに脈動している。
「旧魔法文明が遺した——いわゆる階梯武装の一つである。第八階梯級の術式を、同時に複数展開することを許容する」
タクミはそれを見つめる。
(……やっとそれっぽいの来たな)
少しだけ、胸の奥が動く。
だが同時に思う。
(これで亜神とやれって?)
相手は世界を砂にした存在だ。営業トークでは通じない。タクミは頭をかいた。帰れない。能力もない。だが逃げ場もない。
砂漠を見渡す。果てがない。
「まあ……」
小さく笑う。
「なるようになるか」
その言葉は、投げやりではなかった。
覚悟でもない。ただの現実主義だ。できることをやるしかない。
サラディンは、その言葉を聞いて——八百年ぶりに、微笑んだ。
後悔に沈んだ顔ではない。
ほんのわずかだが、救われた者の表情だった。
夜の砂漠に、二つの影が落ちる。
罪と。ただの男。
世界はまだ、何も許していない。
それでも。物語は、静かに動き出していた。
砂の海はかつての都の墓標であったか。
七人の過ちが荒野へと姿を変えたのだ。
重すぎる代償を前に男は何を想うのか。
理不尽な世界でただ明日を求め歩き出す。





