第1話 サラディンとの邂逅
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冷たい石床が異世界への門出を告げる。
かつての栄華は砂に飲まれ風化する。
救いなき永劫の檻に男が足を踏み入れる。
英雄なき荒野に生存の足音が響き渡る。
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タムラ・タクミはタクシーの後部座席で資料をめくっていた。
窓の外を流れる東京の街並み。信号待ちの車列。曇ったラジオからは午後のニュースが流れている。
十四時にはクライアント先へ入らなければならない。その前に、もう一度だけ数字を確認しておきたかった。
「うーん……」
細かな数字を目で追っていた時だった。視界が滲む。文字が霞んだ。
「ん?」
目を擦る。最近は残業続きだった。疲れが溜まっているのだろう。そう思った。
だが、霞みは消えない。むしろ広がっていく。資料の文字が白く溶け、窓の外の景色も、運転席の背もたれも、世界そのものが白く塗り潰されていく。
「なんだこれ……」
次の瞬間、視界は完全な白に飲み込まれた。
◇
熱を感じた。乾いた風が頬を撫でる。タクミはゆっくりと目を開いた。真っ青な空が広がっていた。雲ひとつない、どこまでも高く果てしなく続く青だ。
「……あれ?」
身体を起こす。硬い地面と、砂の匂い。タクシーのシートの感触はどこにもない。
「俺……タクシー乗ってなかったか?」
辺りを見回し、そして固まった。見渡す限り砂だった。黄金色の砂丘が地平線の彼方まで続いている。建物もない。道路もない。人影もない。ただ、砂だけがある。
「砂漠?」
思わず呟く。
「いやいやいや」
立ち上がり、もう一度見回す。何度見ても砂漠だった。
「どこだここ。鳥取砂丘? なわきゃないか、さっきまで千代田にいたからな」
「なんだこれ……」
ふと足元に視線を落とし、そこでようやく異変に気付いた。巨大な円。複雑に絡み合う紋様。地面一面に描かれた幾何学模様が、青白く明滅している。
「魔法陣?」
映画やゲームでしか見たことがない代物だ。
「オカルト好きもいるもんだな……」
しゃがみ込んで触れてみる。冷たい。そして脈打つように光っている。
「てか、ここどこだよ……」
腕時計を見た。時間は止まっていた。
「十四時にクライアントのところ行かなきゃならんのに……」
頭を掻く。しばらく考えるが、答えは出ない。最後にいた場所は千代田区だ。それだけは間違いない。なのに目が覚めたら砂漠である。まったく意味が分からない。
「……夢か」
それが一番しっくり来た。
「夢だな」
頷く。
「夢だわこれ」
「夢ではない」
声がした。
「うおっ!?」
飛び退く。いつの間にか魔法陣の向こうに人影が立っていた。長い蒼髪に透き通るような衣。半透明の身体は、風が吹くたびにその輪郭が揺らぐ。まるで亡霊だった。
「ゆ、幽霊!?」
「幽霊ではない。似てはいるがな。我が名はサラディン」
「取り憑いたりしない?」
「取り憑きはしない」
「よかった」
サラディンは少しだけ困ったような顔をした。
「夢だよなここ?」
「夢ではない」
沈黙。風だけが吹く。タクミは空を見上げ、深呼吸し、それから諦めたように言った。
「もしかして、よくアニメで見る異世界召喚的なやつ?」
男の眉が僅かに動いた。
「話が早いな」
低い声が響く。
「神言語魔法、神喚の法にて、汝を召喚した」
男は足元を指差した。魔法陣が揺らいでいる。水面のように。今にも消えてしまいそうだった。
「うーん……」
タクミは腕を組む。
「俺、三十二歳のサラリーマンだからな」
サラディンを指差す。
「多分、人選ミスだぞ。戻してくれ」
「戻れぬ」
「……まじ?」
「神喚の法は一度しか使えぬ」
「……ガチ?」
「本当だ」
タクミは天を仰いだ。
「そうかぁ……」
しばらく考える。そして頷いた。
「まあ、しょうがないな」
男の目が僅かに見開かれた。
「動じぬのか」
「戻れないものはしょうがないだろ」
営業職は理不尽に慣れている。覆らない案件もある。今回はちょっと規模が大きいだけだ。
「で? 俺は何をすればいい?」
そして少し笑った。
「やっぱり魔王討伐か?」
「魔王などおらぬ」
サラディンは眉をひそめた。
「亜神を消し去ってほしいのだ」
「亜神? どんな奴だ」
「私のような存在だ」
男は自らを指差した。
「神などではない。元は人間だった。消さねば世界が消え去る、やもしれぬ」
「世界が消えるような破壊力の攻撃してくるってこと?」
男は沈黙した。長い沈黙だった。
「詳しくは言えぬ」
やがて掠れた声が漏れる。
「……すまぬ」
「気にすんな」
タクミは肩を竦めた。
「そんなことよりチートだ」
「チート?」
「特別な能力だよ」
目を輝かせる。
「あるんだろ?」
異世界転移。なら当然あるはずだ。
「まずレベルカンストから始めるか」
男は目を伏せた。
「すまぬ」
嫌な予感がした。
「特別な能力はない」
「……マジ?」
「本当だ」
タクミは真顔になった。
「じゃあ強い剣は?」
「ない」
「エクスカリバー」
「ない」
「アメノムラクモ」
「ない」
「ラグナロク」
「ない」
「…………」
砂漠の風が吹いた。
「その代わり」
男が言う。
「二つの兵装を渡す」
「おっ」
「これは特別やもしれぬ」
「やっぱあるじゃん」
少し安心した。だがすぐに周囲を見る。
「てかさ、普通こういうのって城に召喚しない?」
見渡す。砂。砂。砂。
「城とか城下町、あるよな?」
男は静かに答えた。
「ここだ」
「いや、ここ砂漠だろ」
「ここはサラトニア王国」
男の視線が遠くを見る。
「七百万人が暮らした王都。その魔法研究棟跡地だ」
「……ここが?」
「そうだ」
「滅んだのか?」
「滅ぼした」
風が止んだ。
「我々亜神が」
タクミは言葉を失った。どこまでも続く砂の海。この光景を作ったのが、目の前の男たちだという。
「は?」
ようやく声が出た。
「そんな奴を倒せってこと?」
「そうだ」
迷いなく男は頷いた。
タクミは額を押さえた。
「……砂漠スタート」
空を見上げる。
「能力ゼロ」
砂丘を見渡す。
「ブラック企業どころの騒ぎじゃないな」
風が、二人のあいだを吹き抜けていく。
巻き上がった砂が視界を曇らせ、その向こうでサラディンの輪郭が陽炎のように揺らいだ。
世界を滅ぼした亜神。
ただの営業マン。
交わるはずのなかった二つの運命は、この砂漠の果てで静かに結びつく。
ここから始まるのは、ただの生存の物語。
もっとも――
この研究棟跡地へ、生身の人間が辿り着いた前例は存在しない。
その事実が何を意味するのか。
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失われた空の下で二つの魂が交差する。
七百万の罪を背負い砂の檻を歩き出す。
帰る場所も与えられた奇跡も何もない。
ただ生きるという最果ての覚悟を抱く。
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