第24話 空の王者
空を支配せし黒き王の気配が消え去る。
静まり返る砂漠に好機を嗅ぎ取りて。
三十八日の隠遁を終え男は荷を背負い。
生存の必然を胸に再び門へと歩みゆく。
ワイバーンがこの辺りを狩場に定めてから、二週間が過ぎていた。
砂は今日も白く灼け、空はどこまでも高い。
昼過ぎ、決まってその時刻になると、ロドスたちは極度の緊張に支配され、死を待つ小鳥のように沈黙した。
ギャア。
乾いた空気を切り裂くような、短い鳴き声。
タクミは瓦礫の影からゆっくりと空を見上げた。青を横切る、ひとつの黒い点。
黒いワイバーン。
巨大な影が砂原の上を滑るように走る。それは地表を這う死の予兆そのものだった。
影が通り過ぎる場所では砂が渦を巻き、まるで大地そのものが死の影に怯えているかのようだった。
ヴァサッ、ヴァサッ。
重い羽音が空気を圧迫する。砂がざわめき、古びた瓦礫が共鳴して鳴る。あれは挑む対象ではない。
旧サラトニア王国においても、それは討伐すべき敵ではなく、畏怖し、崇めるべき「空の王者」であった。
タクミは瓦礫の裏に身を潜め、呼吸を殺した。鼓動さえも、岩肌を伝って空へ届くのではないかと錯覚するほどの緊張感。
この城塞はかつて、その威容を誇る防衛拠点だった。
しかし、今は一匹の飛竜の巣窟となり、タクミという名の一人の生存者を、その瓦礫の狭間で生かしているに過ぎない。
頭上を通過した羽音が遠ざかり、重圧がわずかに緩む。この静寂こそが、生存のための唯一の猶予だった。
サラディンの知識が脳裏に浮かぶ。
『最上位の捕食者たる彼らは、敢えて夜間に活動する必要がない。自らの強さを以て、白日のもとを闊歩することを選んだのである』
強者は光を選び、弱者は闇に寄り添う。
焚き火は夜だけ。煙は最小限。
干し肉を噛み締めながら、タクミは自分が今、強者の対極にいることを噛み締めていた。
欲を出せば死ぬ。水という甘美な誘惑がある井戸にさえ、手を出すことを禁じた。
命より水浴びを優先するような愚は犯さない。
この砂漠で生き延びるために彼が身につけたのは、強さではなく、徹底した「弱者としての生存術」だった。
城塞遺跡に辿り着いて三十八日目の昼過ぎ。
違和感は、あまりにも静かに訪れた。
ロドスたちが鳴かない。
あの圧迫感がない。
(来ない……)
耳を澄ませても、羽音ひとつ聞こえない。
ワイバーンが狩場を変えた。それは確信に近かった。
安堵ではなく、好機。タクミは即座に決断した。この城塞に固執したところで、待っているのはただの緩やかな死だ。
(出発するなら今しかない。思考を止めるな、歩き出すんだ)
夜の帳が下りるのを待つ。
タクミは荷をまとめ始めた。干し肉、水筒、ナイフ。一つずつ、生存の証を背負い直す。
かつて営業職として培った判断力が、今の状況を冷静に分析していた。
ここにある資源は十分ではないが、これ以上留まるリスクを上回る価値はない。
瓢箪水筒からわずかに水を垂らし、乾ききった髭を湿らせた。ナイフを当て、伸びきった髭と髪を無造作に切り落とす。刃が滑り、砂の上に髪が散る。
少しだけ体が軽くなった気がした。鏡などないが、今の自分は文明人などではなく、ただの砂の住人になっていることだろう。
「よし、行くか」
声は夜に溶け、井戸の澄んだ水面が星を映し出す。手を伸ばせば届く場所にある水。
冷たく、甘く、身体を清めることのできる水。だが、タクミはそれを振り返らずに門へと向かった。
水浴びより命を。それは選択ではなく、生存のための必然だ。
「くそぅ、水浴び……したかったな」
小さく零した独り言は、誰にも届かずに風にさらわれた。
門をくぐると、夜の砂漠が牙を剥く冷たさで出迎える。
冷たい風が頬を撫で、頭上には無数の星々が輝いていた。
かつて空を見上げていたあの夜とは違う。今の彼は、この星空の下で、どこまででも歩いていける。
西へ。一歩、踏み出す。
砂が沈み、足跡が刻まれる。振り返りはしない。あそこは避難所であって、終着ではない。
石壁が影となり、やがて闇に溶けていく。
タクミの足取りは、かつてないほどに力強かった。新調した軍靴が、砂を蹴り、反発を生み、推進力へと変えていく。
タクミはただ歩き続けた。
砂嵐に削られた大地を越え、星々に導かれるようにして。
この砂漠の先にあるかもしれない、まだ見ぬ明日を信じて。
静寂の中、次の生存地を求めて。
(経過日数:百五十一日)
水浴びの渇望を捨てて命の道を選ぶ。
百五十一日目の夜風が頬を冷やして。
砂を蹴る軍靴の音は明日への調べなり。
彼は星々に導かれ西の果てを目指す。





