宇部ジュリアは異世界で二度は釣られない
本当はすぐにでも駆け出したい
夜空には満天の星が輝き、2つの大きな月が浮かんでいる。
護衛対象であるサーシャが宿泊する3階建の宿舎。
その屋上で宇部ジュリアは坐禅を組んで瞑想をしていた。
暖かな春の潮風が心地いい。
腹の下で練り上げた氣を、薄く薄く大気に溶かすようにして広げていくと、その氣に触れた生命体の動きが手に取るように分かる。
屋上にはジュリア以外に24人のエルフの警護隊がいる。素晴らしく鍛えられた戦士たちであり、3交代で朝まで警戒と索敵を続けるそうだ。
宿舎の中も万全の警備体制が敷かれ、温泉郷から事前に派遣されたロイヤルガードという強者たちが、サーシャの部屋を中心として歩哨に立っている。
さらに、宿舎の周りを探ると6人組の部隊が24組と3人組の部隊が48組も展開して、まるで1匹の生物のように連動して警戒網を敷いている。
「ジュリア様、もう間も無く結界を展開致します」
「うん、わかった。ボクはこのまま朝まで待機するから、交代は必要ないです」
「かしこまりました」
部隊長のエリナが事前に交渉と擦り合わせを済ませてくれたおかげで、ジュリアはエルフの警護隊の指揮下に入ることなく、独自判断が許されている。
ジュリアが異世界に来て約2週間が過ぎた。
様々な事があり、戸惑うことも多かったが、ここ数日は凪の湖面のように気持ちが安定してきている。
地元での生活はシンプルだった。朝早くに起きて修行をして、学校に行き、帰ってまた修行をする毎日。
只々、強くなる事だけを考えていればよかった。
訓練施設でも同じだったけれど、何だか仲間たちの事を考える時間が増えてきた。
特にサトシの事が気になってしまうのが、何だか不思議だった。
ジュリアは異世界に来てから、何故か感情の振れ幅が酷くなった。
すごく弱いサトシを仕方なく鍛えてあげながら、ギフテッド『房中』で仕方なくそう仕方なく繋がってあげて力を分けてあげたら、何だか余計に気になってしまう事が増えて、他の女の子と話しているだけでモヤモヤしてしまう。
サキやセイラ、エリナと仲良くお話していても気にならないが、同じくサトシのことが大好きなサーシャとくっついていると、ムカムカと腹が立ってくる。
不思議な事にサーシャの事は嫌いではない。あの胸の巨大な駄肉の塊は引っ叩きたくはなるけれど、人として好ましいと思うし、サトシが眠っていたり側に居ない時は、何故か仲良くお茶を飲んだりお喋りをしてしまう。
だけど、要塞の副司令のリリアやサーシャのメイド長のミリアと一緒にいるのはイライラする。
大きいお胸にデレデレするサトシがイケナイとは思うが、大きいマリーやとても大きいサーシャの母親であるマリエールにデレデレしていても、特にイライラしない。
その差は何なんだろうと考えるが答えはでない。
ジュリアの氣による索敵範囲は500メートル前後だ。体調により数メートルの誤差は出るが、その範囲なら負担なく行える。
氣を球状に広げてさらに深く探知を行う。
重装備を身につけたサトシがドーリーから飛び降りてきたのが分かった。
ドーリーの前にいるサトシの氣に触れると何だか心がふわふわして、体がムズムズする。
ここ数日、マリーと2人で防御の技を叩き込んだ甲斐があったようで、全身に満遍なく氣を纏っている。
サトシの側にマリーと7体のゴーレムがやってきた。
マリーが発する氣はとてつもなく強い。真球を描くように体を覆っており、寸分の乱れもない。
こちらの世界では闘気という概念らしいが、アプローチが異なるだけで、体内で練り上げる氣とほぼ同じものだ。
マリーの背後にいる7体のゴーレムは、他のゴーレムとは違う。
無機物のはずなのに、生命体のような感覚が伝わってくる。今も6号と呼ばれている1番小さな個体が、ジュリアが視ているのに気がついて、こちらに手を振ってきたので笑みが溢れた。
「ジュリア様、お食事です。こちらに置いておきますね」
「はい、ありがとうございます!後でいただきます!」
警護隊の1人がお弁当を持ってきてくれた。
すぐ側に敷いたシートの上に、ジュリア用の大きなお弁当3つと水筒を置いてくれる。
すぐに食べたくなるが、もう少しだけ待った方がいいような予感がして、手をつけないでおく。
しばらくすると、其れがやってきた。
恐ろしいくらいに静かなのに、信じられないくらい研ぎ澄まされた氣の持ち主だ。
ゆっくりと散歩でもするかのように歩いてくる。
ジュリアの索敵でも、何とか捉えられるくらいしか存在感がない。
厳しい訓練をこなして、鍛え上げられたエルフたち200人以上が警戒をしているのに、ジュリアとマリー以外は、其れが近づいて来ている事すら気が付いていない。
温泉郷に滞在した最終日の早朝、微かに感じて会いに行った、何だか懐かしいような圧倒的強者の氣と同じものだ。
ジュリアが微かな気配に誘われてやって来た、温泉郷の住宅街の端。
入り組んだ小さな路地の奥にその店はあった。
陽だまりの中に建つ、小さな2階建ての木造建築の店だ。
入り口の横には白い大きな犬と、黒い小さな猫がぐでんと仰向けに寝転び、日向ぼっこをしている。
2匹とも薄目を開けてちらりとジュリアを見るが、興味なさげに欠伸をして目を閉じる。
「開いていますから、どうぞ入ってきてください」
風に乗って耳元で囁く柔らかな声に誘われて、少し緊張しながらも扉を開けて中に入る。
店内には小さなカウンターがあり、壁に備え付けられた棚には沢山の封がされた壺が並んでいた。
「お茶が入りましたので、奥にどうぞ」
カウンターの横にある扉を潜ると小さな廊下になっており、その先には大きな窓がある部屋があった。
暖かな陽射しが差し込み、上品な家具で統一された居心地が良さそうな空間になっている。
ソファの横に華奢なエルフが1人にこやかに立っていて、腰掛ける様にとソファを指し示す。
「お邪魔します!ボクは宇部ジュリアです!はじめまして?」
「はい、ようこそいらっしゃいましたジュリアさん。わたしはアンジェリカと申します。この店で付与術師をしております。さあ、お茶とお菓子をどうぞ」
アンジェリカと名乗ったこの人とは、初めて会うはずだ。
でも、なんだか初めてじゃないような気がして、ソファに腰掛けながらジュリアは首を傾げる。
勧められるままにお菓子とお茶を口に含むと、幼い頃に食べた記憶がある味だった。
「あの、アンジェリカ、、、さんは、ボクと会った事がありますか?」
「アンジェでかまいませんよ。まだ、ジュリアさんがお小さい時に、ライラさんとウルスラさんと一緒に会っていますね」
ジュリアは母であるライラの里帰りの際、姉のウルスラと共に異世界に来たことが1度だけある。
だがその時に会った事があるのは、朧げな記憶では母と姉妹盃を交わしたという、母と同じくらい背の高いエルフだけのはずだ。
「アンジェはもしかして、ブシンのおねいさん?」
「あら、覚えてくれていたのですね。とても嬉しいです」
アンジェリカの力を探る。
恐ろしく静かな氣を纏っているが、深く探ってみるとまるで大海の様に深く広く底が見えない、膨大な力を持っているのが分かる。
幼い頃は分からなかったが、こんな力を持つ存在が、母以外にこの世にいたのかとジュリアは興奮する。
「でも、アンジェは前に会った時、お母ちゃまみたいにおっきくてすごくせくしーだったよね?」
ジュリアの母は身長190センチ越えでスタイルがすごくすごい。
ちなみに、姉と妹もおっきくてすごくすごい。
ジュリアだけがちいさくてすごくない。
ご飯はジュリアがいちばんすごくすごい食べているというのに、全く理不尽な事だと思う。
「だって、あの姿は可愛くないでしょう?だから、身体操作でこの姿になっているんです。ジュリアさんは小さくて、とても可愛いですから羨ましいです」
その言葉にジュリアは同意できない。
ドンッ!ギュン!ドンッ!である、母や姉や妹みたいな体の方がいいに決まっている。なにせ、サトシは大きなお胸が好きだし。まぁまだまだ成長期だしまだまだこれからだし。
最終的には血筋的に似た様な体型になるに決まっている。だからジュリアは諦めていない。諦めたらそこで試合終了らしいし。
「おっきい方がいいのに……あ!それよりアンジェはどうして氣を使ってボクを誘ったの?ドーリーに連絡くれたら会いに来たのに」
ほんの微かな氣で来るように誘われたのだ。
ジュリア以外、ほぼ誰も気が付いてないはずの誘いだ。
「大山サトシ様の事でお願いがあるのです」
ジュリアはあまり頭が良くない。
そもそも、宇部の家は脳筋の血筋だし、母も考えるより先に体が動くタイプだ。
だから、色々と説明されても難しい事はよく分からなかった。
よく分からなかったが、アンジェリカがサトシを護るため、色々と動いてくれている事は理解できた。
何やら力試しをすると言っていて、それが終わるまで手を出さないようにお願いされた。
命が無事ならどんなに負傷をしても助けられるという事なので、色々な防御方法をサトシに叩き込んだ。
マリーはアンジェリカの強さは信じているが、サトシを守ってくれるかは分からないと、必死に生き残るための技術を教え込んでいた。
そのマリーがアンジェリカに接触するのが分かった。
間合いに入った瞬間、脱力状態から無拍子で左の斧を叩きつけようとしたが、右手であっさりと受け止められる。高速で何度も叩きつけるが、強化した右手で軽く弾かれ続けている。
ジュリアからみてもマリーの攻撃は素晴らしいものだ。全身を闘気で強化しており、インパクトの瞬間に接触した場所に力が収束するように叩きつけている。
最小の動きで最大の力が発揮できるよう、気の遠くなるような正しい鍛錬を積み、幾千もの死戦を乗り越えなければ辿り着けない領域だ。
巨大な物質同士が高速で衝突したような轟音が、何度も鳴り響く。
警戒していたエルフ達もその戦闘音に気づくが、気を取られたのは一瞬だけで、自分たちの味方であるアンジェリカだと認識した瞬間、全方位の索敵に意識を戻したのは流石だと思う。
だが、その一瞬に何か不穏な気配が近付いたような感覚があり、ジュリアは深く索敵に集中する。
索敵範囲ギリギリの位置に微かな反応があり、正確には捉えきれないが、確かに何かがいると確信する。
エルフ達は南側の1体を捕捉したようだが、追跡には入らない。展開している6人組の部隊が陣形を組んで、結界を張りどっしりと迎え討つ体制に移行している。隙間を3人組の部隊が埋めて、近寄らせないように遠距離攻撃を始めた。
苛烈なマリーの攻撃はますます速度をあげるが、アンジュリカは動じる事なく鮮やかに弾いていく。
マリーが唐突に攻撃のリズムを変えて、右手の巨大な戦斧を横に振り抜いた。
体を竜巻のように回転させ、両腕の斧の重量に遠心力を加えながら、様々な角度から叩きつけていく。
同じく両腕を使い弾いていたアンジェリカの動きも変わる。攻撃を弾かずに捌き、受け流し始めるとマリーのリズムがわずかに乱れた。
その刹那、ふわりと間合いを詰めて、掌でマリーの顎先を優しく撫でるように掠める。
意識を失うマリーの体を優しく受け止め、ゴーレム1号に預けて、ゆっくりとサトシの元へと向かう。
南側に出現した気味の悪いモヤに覆われた人のようなものは、エルフ達の魔法や魔道銃の弾幕に近寄ってこれていない。
だが、もう1体がサトシ達の近くに侵入しているような気配を感じる。
アンジェリカによる試しとやらは、ほんの10分ほどで終了した。最後に放った突きに込められていた闘気があまりにも膨大だった為、サトシを助けようと体が動きかけたがジュリアは何とか我慢できた。
かなり危なかったが、サトシにかすり傷ひとつない事にジュリアが安堵した瞬間、それは現れた。
縦にも横にも大きい牛人族の男だ。どうやってその位置に現れたのか分からない。2本の歪な角が不気味に蠕動しているのが分かる。
サトシを抱き抱え、素早く距離を取ったアンジェリカが手刀で巻き起こした真空刃に、強い魔力を込めて飛ばし角を切り飛ばした。
爆発的に体積を増やした2本の角がくっつき人型になった瞬間、精神を削るような高音の音が響いた。
アンジェリカが何かを叫んでいたようだが、かき消されて聞こえなかった。
その音が収まると、サトシ、マリーと7体のゴーレム、アンジェリカ、人型の存在は消えていた。
どれだけ探ろうとも、ジュリアの索敵範囲内にはいない。飛び出しそうになるのを必死に堪える。
「こちら観測班!強制転移を受けたアンジェリカ様からの位置情報がきました!え……し、深淵平原北部!前線監視要塞より350キロ地点!大山サトシ様、マリー様もご無事との事です!迎えは不用。転移装置がある要塞まで移動後に帰還。帰還日は3日後を予定。以上」
デバイスから流れてきた情報に、屋上にいたエルフ達が緊迫する。強制転移とやらで、あまりよくない場所に飛ばされたようだ。
だけど、マリーと7体のゴーレムにアンジェリカがいるなら、サトシも無事に帰ってくるだろうとジュリアから焦燥感が消える。
マリーの生存能力と継戦能力に加え、あのゴーレムたちがいる。そこに、アンジェリカが加われば戦闘面の心配はほぼない。
それに、今はここを離れるべきではないと本能が囁く。
これはあのデーモンの時と同じ釣りだと。
狙われているのはサトシではなくサーシャだと確信できた。
「江崎隊各員に連絡!サトシさんとマリーさんが強制転移を受けて、別大陸に飛ばされたとの事!部隊長権限で追うかどうかの決を取ります!理由を述べた後に、賛否をお願いします」
エリナの緊迫した声が流れてきた。
「俺は追うべきだと思うぜ!ポチなら2日でイケる!」
「そうだね〜わたしも追うべきだと思う〜ただ〜部隊を分断する罠の可能性を感じる〜」
ユウキとセイラは賛成のようだ。
「反対だ。3日後に帰ってくる可能性があるなら、護衛対象から離れるべきではない。戦力を3つに割くのはリスクが高い」
サキは反対のようだ。その理由にジュリアも同意する。
「ボクも残って帰還を待つべきだと思う。かなり危ない場所に飛ばされたみたいだけど、マリーとアンジェが一緒なら大丈夫。サトシも無事に帰ってくる。サーシャの護衛を続けるべき」
「賛否が分かれましたわね。わたしも追うべきだと思っておりましたが、サキさんとジュリアさんの意見に同意いたします。冷静ではなかったようです。江崎隊はこのままサーシャ様の護衛に残り、サトシさんとマリーさんの帰還を待ちます。幸い出発は4日後ですので、それまでは待ちましょう」
ジュリアはエリナの言葉に安心する。冷静に判断を下してくれた事に感謝する。
「帰ってきたら厳しく躾けるからね。だから、無事に帰ってくるんだよサトシ」
そう呟いて、ジュリアは南側から侵入してきた、もうひとつの不気味な存在に対応すべく、宿舎に張られた結界をすり抜け、屋上から弾丸のように飛び出した。
サトシとマリーの無事を強く願いながら、拳を振り抜いた。
深淵平原
歴代の魔王と称される存在が顕現し、支配する大陸にある広大な草原。
強大なエネミー群が闊歩する異世界屈指の危険地帯。
12種族連合の観測と監視を目的とした要塞がある。
他勢力の要塞も3ヶ所あり、協力関係を結んでいる。




