第8章
「もうすぐスープが温まるぞ。そこのパンと一緒に食べなさい」
その老人は、座って白湯を飲むヘンリーとジュリエットにそう言った。目の前のテーブルには、固くなったパンと、静かに燃えるろうそくが置かれている。
「すいません。夕食まで頂いちゃって」
飲み干したジュリエットが言った。白湯を飲み、白いほおが赤く染まっている。
「いいんじゃよ。さっきも言ったが、久々のお客さんだからな」
老人は笑顔でそう返すと、ぐつぐつ煮こむ鍋に、塩をパラパラと降らせた。薄いスープの具は、豆とキャベツ、少量のベーコンだ。貧相かつ栄養不足なメインディッシュだが、この場にいる三人からすればご馳走だった。
この老人は、リバモアという偉そうな名前の持ち主だった。今年で七十二歳になる彼は、七年前まで首都の大学で、理系の教授をやっていたインテリだ。シワだらけのハゲ頭が、それを物語るよう。
しかし、彼が専門とする分野が、ハイレベルかつマニアック過ぎたため、学生に敬遠されてしまった。その結果、大学を辞めざるをえなくなり、この山に移り住んだ。
老人リバモアの家は、小さな木造住宅で、切り立った崖に密着する形で建てられている。間近で見た二人は、崖崩れを心配していたが、彼の経歴を知り、安心して過ごせている。少なくとも、彼は魔族側の人間じゃない。
「爺さん、さっきそこでサルを殺してさ。よければ持ってこようか? サルの肉はなかなかいけるよ?」
死骸を思い出したヘンリーが言う。
「白毛のヤツらじゃろ? ワシも先月、罠で一匹殺してやっての。ほら、そこに引っかけてある」
サル肉の美味しさも知っているらしい。彼が指さす天井の端っこに、派手に切り開かれたモンキージャーキーが吊り下げられている。
「二匹分もいらないね」
もっとも、雨に濡れた死骸が、まだ腐り始めていないとは限らない。それに、外はもう日が沈み、夜闇が家を囲んでいる。近くで鳴いているフクロウが、じきに死骸を見つけることだろう。
「ほう、さすが選ばれし二人組じゃな。悪賢い二匹が相手でも、平気というわけだ?」
「ちょっとやめてくださいよ!」
リバモアの言葉に、ジュリエットは恥ずかしげだ。白湯を飲み干した際よりも、ほおが赤く染まっている。
リバモアは、突然やってきたヘンリーとジュリエットが、国王から任を受けた二人組だと、すぐに察することができた。人づての言葉による情報だけで、この二人がそうだとわかったのだ。
まだ十二歳の少年少女なのに大変だと同情するだけでなく、魔族による混乱の中、よくここまで来れたと、素直に感心していた。彼が二人を温かくもてなすのは、それが理由だ。
彼は彼で、魔族には困らされている。魔獣を干物にするために、この山へ移り住んだわけじゃない。とあるライフワークのためだ……。
「麓の村にいる魔族も、そんな調子で早くなんとかしてほしいもんじゃ」
ぼそりと呟いたリバモア。静かな口調だが、嫌味っぽさが含まれている。
「え? 麓の村ってメアリーヒルのこと?」
「ああそうじゃ。毎週のように買い物に行ってたよ。……三ヶ月ほど前まではな」
「するとその、今はもう……」
「そう。魔族にやられ手遅れじゃ。いや、半分手遅れが正しいな」
リバモアはそう言うと、沸騰する鍋の火をスッと消した。
スープの出来上がりだが、笑顔でいただきますと言える空気ではなくなっている……。
リバモアは麓側の窓辺へ歩き出した。無言のまま、彼についていくヘンリーとジュリエット。
「ここから村が見える」
リバモアが振り返り、窓を指さした。
窓には、黒く分厚いカーテンがかけられていた。室内の明かりを漏らしてはならぬというメッセージが、自然と伝わってくる。それに応え、カーテンの布地を慎重にめくる二人。
メアリーヒルは、二人が山の上から目にした麓の村だ。しかし、あのときは単眼鏡で、村を輪郭程度で見たに過ぎない。
今は村内を詳しく伺える。人の姿だけでなく、魔獣の姿も所々に見つけられた。村が魔族に占領されているようだ。
とはいえ、村は明るさに包まれている。暗くも明るくもなく、平和な雰囲気まで匂わせてきた。
「なんか変だよね?」
「うん、明るいけど……。単眼鏡使おっと」
件の単眼鏡を取り出すヘンリー。
旅路で培われた直感を、二人揃って浮かべていた。リバモアは彼らにすっかり感心したらしく、黙って何度もうなずいている。
そして、十分うなずけたことに満足したのか、窓や彼らのそばからそっと離れていく。鍋のスープだけでなく、何か用意する物があるという表情で……。
「やっぱり変だ。あいつらなぜ?」
「見せて見せて!」
単眼鏡を交互に覗くヘンリーとジュリエット。覗く度に、顔つきが険しくなる。
魔獣と村人が、ごく自然な様子で村内を歩いていた。村人は魔法使いで、魔獣を従えているわけではない。魔獣が村人を襲う様子も、村人が魔獣を恐れる様子も見られないのだ。
それはまるで、共存共栄で暮らしている光景だった……。大きな荷物を一緒に運ぶところも見られた。
「グルになってる?」
「脅されているかもしれないけど、嫌々やってるようには見えないね」
彼らが戸惑うのも当然だ。そんな光景を見たのは、これが初めてだった。
首をひねり、対応策を練る二人。敵意剥き出しな魔族だけならともかく、村人たちが全員敵である保証は無い。魔族の数だけでも多いうえ、村人も敵ならば完全に不利だ。集団リンチに遭い、ボロボロで汚い死に様を晒したいとはいえ、二人とも思っていない。
「お二人さん!」
静寂の中を突き通る、リバモアの声。分厚いカーテン越しでも聞き取れた声に、二人の思案は中断する。
カーテンをめくると、すぐ目の前にリバモアが突っ立っていた。思わず同時に息を飲む二人。
「コレを使い、村の問題をさっさと解決してくれると助かるんじゃがの?」
リバモアのよぼよぼな両腕には、重厚な鉛製の箱が抱えられている。非常に大事かつ大変な代物が、その中にあるようだ。
箱を抱える彼の笑顔は、鍋の中へ塩を降らせていた際のそれと、完璧に同じだ……。




