第7章
山の天気は変わりやすいが、この激しい雨は止む様子を見せない。意地悪なもんだ。
霧はとても濃くなり、難なく見通せる距離は十メートルあるかないか。分厚く白いそれは、木の根元に座りこむヘンリーとジュリエットを完全に取り囲んでいる。
「ねえ、寒く感じる?」
「いや、オレのほうはそんなにだけど、まだ寒い?」
「……えっと、少しずつ温かくなってきた感じだね」
太い木の根元で二人は向き合い、両手をつなぎ続けている。手をつなぎ始めて五分しか経っていないが、二人は共に三十分ぐらいだと思っていた。手つなぎ自体は、以前にも一度経験(無論、彼の自腹)があったものの、彼は酷く短い時間に思えたはずだ。楽しい時間は早馬の如く進み、苦しい時間は肥えた鶏の如く鈍いもの……。
「しかし、ジュリーが火の魔法をちゃんと使えたらなあ?」
緊張のせいか、余計な指摘をしてしまうヘンリー。
「つ、使えるには使えるわよ! 今すぐ試そうか?」
「いやいや! 遠慮しとく!」
彼女が両手に力を込め始めた途端、彼はすぐさま制止する……。
「この手つなぎ代で、長持ちする火の魔法書を買えるかな?」
彼女は火の魔法も扱える。旅立ち三日目で魔獣に使った件が、初めての実戦だ。ただ、火の魔法にもいろいろな種類があり、彼女は除草向け火炎放射器程度の火力しか、まだ放てないのだ。おまけに、魔力自体が弱いせいで、焚き火に使っても長く持たない。
そのため、焚き火向けの魔法も覚えたいと常々思っていた。残念ながら、今回には間に合わなかったのだ。
「どうせならキスして、キスにしてほしかったね。……お、覚えたい魔法がたくさんあるから!」
自分で噛んでおきながら、赤面してしまうジュリエット。
「……ゴメン! お金が足りなくてさ!」
彼女に気を遣ってか、恥ずかしいからなのか、そう軽く受け流したヘンリー。彼も見事な赤面をお披露目だ。
ヘンリーは話題を変えようと、近くで死んでいるサル型魔獣のほうを、アゴで指し示す。直後は血まみれだった死骸も、今は豪雨にすっかり水洗いされている。この薄暗さでも、その白毛は見栄えがよい。
「あのサル、毛皮だと何ドソだろう。ジュリーが工房なら、いくら出す?」
「うーん、二匹分で六十ドソぐらいだね。一枚一枚が小切れだろうし」
「ええっ! 合わせて百ドソは超えると思った」
キス代までは遠い。
「付加価値があれば、七十か八十だね。毛皮だけじゃなくて、肉も全部売ればいいわ」
「え? 味は悪くないけど、サル肉は全然売れなかったじゃん?」
以前にも二人は、サル型魔獣を撃退し、食べたり売った経験がある。意外にも獣臭さは控えめで、鶏肉に近い旨味を楽しめた。これは高値で売れると、ヘンリーが皮算用を弾いたのは言うまでもない。
ところが、客の反応は非常に悪かった。サルだと告げた途端、試食すらしてもらえないほど。売れ残ったサル肉は、二人がモンキージャンキーにして、腹を何度か満たした。干しても美味だった点は、心の救いだ。
「似た動物の肉だって言うのはどうかな? 例えば、味が似てる鶏肉としてさ」
ジュリエットもなかなか成長したもんだ。善良な大人にではないが。
「いくらなんでもバレるって」
「そう? 先月だって、コウモリっぽい魔獣を、カラスの肉としたら売れたよね?」
「……ああ、うん。ハラハラドキドキで寿命が縮んだよ」
食品衛生に情けもかけない、あくどい二人だ。病死した鶏すら平気で売るに違いない……。
ピークは過ぎたが、雨はまだ止まない。立派な針葉樹は今も、二人を雨粒からほぼ守ってくれている。
そして、濡れによる気化熱からは、ヘンリー出資の手つなぎで温かく守られている。金は払わなくてもよかったはずだが、気になる相手と長時間そばにいられるので、コスパは悪くない。ジュリエットのほうは、二重に得してるわけだが……。
「先週、いや二週間前か。森で難民を助けたの覚えてる? オオカミの魔獣と魔法使いを倒したときのこと」
「うん、もちろん覚えてるよ。しつこく感謝されたもんね」
「……そうだったね。私はあのとき、魔族退治の旅に出てよかったと、改めて思ったの」
「うーん、悪いけど呑気だな」
「呑気?」
暗雲がポコンと浮かぶ……。こういう会話では、肯定が無難なのにね。
「よかったと思うのはわかるけどさ。獲物を横取りされるかもとは思わなかった?」
「……ううん。ケガ人もいたから、そうは思わなかったけど」
「あいつら、いやあの人たちはあの人たちで、金や食べ物が必要だからさ、気をつけないと……。むしろ、魔族にわざと自分たちを襲わせたとかもありえないか?」
「ないない! 考えすぎだよ!」
「……ごめん、さすがにそうだよな」
彼女の必死な否定に、ようやく肯定してくれたヘンリー。
旅の疲れからか、最近の彼は疑心暗鬼になりやすかった。彼女よりも、金策に苦労している立場なのだから、ある程度そうなるのも仕方ない。
ちなみに、その難民は魔族にガチで襲われた。なにしろ、激痛に苦しむ悲鳴を、耳障りなほど何度もあげていたからね。
「魔法使いから金歯取ってる最中にも、お礼言ってきてさ。気まずかったよ」
「まあ、あれはさすがにね」
シュールな場面を思い出し、微笑むジュリエット。
「でも、礼を言われること自体は悪くないよ。ジュリーみたいに思えるときもあるし」
「そう? ならよかった。勝手に熱く盛り上がってるんじゃないかって、気になるときがあってね。ほら、変に振り回しちゃ悪いから」
確かに彼女は、この旅に関して、ヘンリーよりも積極的な姿勢だ。
ただ最初と比べると、彼も積極的になり、モチベーションを保てている。旅をしなければ、彼は魔獣から逃げ惑う立場だっただろう。旅を苦労しながら続けるうちに、彼は成長を遂げたというわけだ。とはいえ、嫌でも旅を続け、成長せざるえなかった事情はあるが……。
それでも、ジュリエットのほうが積極性では上のままだ。別に彼が努力不足で悪いわけじゃない。スタートラインの位置が違ったようなもの。
「振り回されているといえば、旅そのものじゃなくて、キス代とかだよ。旅の終わりが見えてきたし、半額にするとか考えない?」
「悪いけど、それはない‼」
目ざといヘンリーからの申し出を、速攻で却下したジュリエット。世渡りも彼女のほうが上のままらしいね。
その後も、取り留めも生産性も無い会話を続ける、ヘンリーとジュリエット。しつこい雨がやっと止んだのは、村長への土産をどんな魔獣の肉にするか話していたときだ。
話を途中で切り上げ、空をじっと見上げる二人。鮮やかな虹が浮かぶといった、ロマンチックな空模様ではないものの、二人を元気にさせる青空が、雄大に広がっていく。
……いや、すでに二人は、元気を取り戻せていた。きっと、ヘンリーが私財を投げ打っていなければ、二人とも凍死している。それを考えれば、手つなぎ代二百ドソは安いもの。
命の危機を脱した二人は、青く染まりゆく空模様を、まだ見上げている。そんな彼らの視線を避けるかの如く、雲が続々と彼方へ去っていく。
頭の角度を水平に戻したのは、自分たちを囲んでいた霧が完全に消え去った後だ。木々の間からは、オレンジ色の日光がいくつも差しこんでいる。一変した周囲に、二人は静かに驚く。子供らしい反応だ。
そして、そんな彼らに、別の驚きが訪れた。今度は静かにいられない類のだ。
「あっ!」
「あれって!」
二人の目が同時に、ある木目を捉えている。驚いた拍子に手を離し、飛び上がるように立った二人。
へし折れた木が晒す天然物の木目じゃない。人工物であるそれが、濡れた木々の向こうにチラリと見えている。木造の小屋が、その場から百メートル足らずの場所に建っていたのだ……。
しかも、相続人不在で朽ち果てた空き家ではない。人の気配をなんとなく匂わせてくる。
「こ、こんなすぐ近くに山小屋が……」
「うーん、濃い霧のせいだね」
互いに顔を見合わせながらも、恥ずかしさを隠せない二人。見事な赤面をまた披露してくれた。
「とにかく行ってみよう! 服や体をもっと、その、温められるからさ?」
「う、うん! そうだね、行こう行こう!」
恥じらいを打ち消すべく、必死な口調や仕草の二人。しかし、その笑顔は引きつっている。
また、歩き方が二人とも、ぎこちなくせわしない。互いに離れたり近づいたりを繰り返している。
ついさっきまで、互いに両手をつなぎ、向き合っていた関係とは思えない。まったくウブなものだね。
もちろん二人とも、嫌なひとときだったと悲しんでいるわけじゃない。心身ともに温かく過ごせたのは確かだ。
特にジュリエットは、この旅に出てよかったと、改めて感じているところ。それが何度目かは知らないし、今後もカウントしない。ただ、今回が一番強烈だった事実は、今後も揺るがないだろう。
そんな彼らの背中を、サルの死骸二匹分が静かに見届ける。見開かれたままの瞳は、西の彼方から差しこむ夕日に照らされ、オレンジ色の鈍い輝きを放っていた。




