第6章
薄暗い針葉樹林に、豪雨に伴う霧が、濃く漂い始めている。初夏の西日が雲隠れしたことも合わさり、走るヘンリーとジュリエットに見えるのは、足元や眼前の木々だけという酷い視界だ。
頼みの山道から外へ一度外れてしまえば、遭難は免れない。雨に打たれ、体温を奪われつつある彼らにとって、それは死を意味する流れ……。
しかも、林に潜んでいた魔獣は、漫然と話し続けるヘンリーとジュリエットを見逃さなかった。二匹いる魔獣は、牙や爪を剥き出しにし、上から襲うための位置につく。サルによく似た魔獣だ。
そして、二匹同時に針葉樹から飛び降りた。片方はヘンリーの目の前に、もう片方はジュリエットの背中に着地する。
「キャア! なにコイツ!」
悲鳴を張りあげるジュリエット。彼女は無礼なサルを追い払うべく、背中に乗るサルを必死に叩く。
「キィ! キィ!」
服やリュックに爪を引っかけ、しぶとく抵抗するサル。鋭い牙でまだ噛みついていないのは、体力の消耗を狙ってのことだろう。
ヘンリーのほうは、立ち止まれずにそのまま衝突してしまった。彼も驚いていたが、勢いよくぶつかられたサルのほうも驚く。ぬかるみに体の半分ほどが埋まり、身動きを取ろうともがいている。
頭上からの奇襲に、二人は戸惑いつつも対処に動く。魔獣側の有利な局面は早くも終わった。
ヘンリーは膝をつきながらも、腰から剣を抜くと素早く振り下ろし、サルの頭蓋骨を叩き割る。彼よりも小さな魔獣なので、全力で剣を振るまではなかった。ただ、ぬかるみに足を少しばかり取られていて、ジュリエットをすぐには助けられない。
とはいえ、彼女は自力で対処できた。例のバリア魔法を背中から放ち、サルを跳ね飛ばしたのだ。突然の防御魔法に、あんぐりと開口しながら飛んでいくサル型魔獣。やがて、自身の背中を針葉樹の幹に強打させ、小さく愚かな命を絶った。細長い葉が、木からパラパラ降り注ぎ、その白毛に濃い緑色を少しばかり添える。
「あっ」
ただ残念ながら、彼女の華麗な勝利にはならなかった……。
背負っていたリュックまで跳ね飛ばしていたからだ。幸い、ズックのそれは木に衝突することなく、草むらに不時着していた。リュックについた泥を急いで払い落とすジュリエット。
「ああっ!」
リュックを手に、一際大きい声を上げた。サルに襲われた際の悲鳴よりも一回り大きいほどの。
「な、なに? 今度はなに?」
膝に泥をつけたまま、彼女の元に赴くヘンリー。
彼女はリュック内に右手を突っこみ、小さな欠片と棒切れを取り出した。
「わ、割れてる。大事なマッチが……」
割れた小瓶のガラス片と濡れたマッチ棒を、彼女は悲しく見つめる……。気のせいか、雨足は一段と強まっていた。山道の先はまだ遠く、人が通りかかる気配も無い。
彼らの服は、スポンジのように水分を吸ってしまっている。さらに、それを乾かすこともできた、マッチの死。今の二人にとって、家族や親友の死に近い悲劇だといえる。
とはいえ、ここで嘆き悲しんだり、坊主を呼んだり、香典を集めている余裕はない。このまま暖を取れなければ、低体温症に陥り、凍死もあり得る……。
「このサル!」
魔獣の死骸を蹴り飛ばすジュリエット。しかし、そのキックにたいした力はこもっておらず、死骸の損壊は軽微に過ぎない。
「ううっ、寒い寒い……」
何もかもが重なり、体を震わせる彼女。濡れたロングスカートからのぞく足には、鳥肌がびっしりと立つ。
「そこの木で休もう。少しは楽に、いや、楽になるよ!」
「……そうだね」
サル型魔獣の奇襲を見事撃退した二人だが、勝利に喜ぶ余裕はない。
二人は山道沿いにそびえる針葉樹の根元に腰を下ろした。この辺りでは、一番太く立派な針葉樹だ。その木は、日本なら北海道辺りで生えるエゾマツだった。高い樹齢を誇るその木は、雨粒の九割ほどを防いでくれている。ヘンリーのお手柄だ。
「今度はちゃんと楽になっただろ?」
「うん、そうだね。……ありがと」
彼女からのお礼に、ヘンリーはつい嬉しくなる。軽いものも含めれば、礼を言われたのは今回が初めてじゃない。それでも嬉しいものは嬉しいのだ。
「気化熱が怖いよ。体温を奪っていっちゃう」
「そ、そんなことあるんだ……」
凍死を思い浮かべ、体をブルッと震わせるジュリエット。無知な彼に丁寧に教える余裕など、今の彼女には無い。
もちろん、彼女だけでなく彼にも、低体温症および凍死の恐れはある。しかし、彼自身はそれを恐れずにいた。「男の自分が弱気になってはダメだ」という、マッチョイズムな考え方が湧いていたからだ。
そしてついに、ヘンリーはあることを潔く決心した。彼は革の小袋に手を突っこみ、指先で硬貨を数える。
「ジュリー、手つなぎ代だよ」
「えっ?」
二百ドソ分の硬貨を、ジュリエットのスカートに置く彼……。その目に、迷いや後悔の色は全く含まれていない。
「ええっ⁉」
突然舞い降りた臨時収入に驚く彼女。以前なら、お礼の言葉を述べ、金を即座にしまっているところ。当たり前と言われればその通りだが、彼女は驚くしかなかった。脳内のメモリーやCPUはフル稼働だ。
「じゃあ」
彼女の了承を待つことなく、両手で精一杯握りしめる彼。
「……そんな」
彼女も同じように握り返す。混沌とした脳でも、それぐらいの反応は示せたというわけだ。
人間として、同世代として、旅仲間として示した、確かな反応。……さらにもしかすると、恋愛関係としても?




