第5章
山の七合目辺りを、ストック無しで歩き続ける二人。ちょうど五合目で周囲の環境が、針葉樹林から岩石だらけの荒い山肌に一変した。灰色の雪があちこちに残り、標高の高さを冷たく物語っている。
空気は涼しげで清々しく、大気の薄さを感じさせないほど美味しい。これが本当の登山なら、日頃の疲れを癒せるはず。
ただ、足元の岩石や、流れる雪解け水などを無視してはならない。平地で転ぶ場合と違い、ここでは滑落の恐怖が待ち受けている。周りに誰かいたとしても、山では一度のうっかりミスさえ、死につながりかねないのだ……。
ヘンリーとジュリエットが言葉を交わしたのは、山の向こう側に越えた直後のことだ。平地よりも当然低く見える雲が、右奥から左手前へ次々に流れてくる。どの雲も大小問わず、迫力がある。
二人は立ち止まり、美味しい空気を楽しみながら、下界を見回してみる。ちょっとした観光気分は悪いものじゃない。
「同じ北部でも、こっち側は別世界だね。荒れ地ばかりで、いかにも魔族の縄張りって雰囲気」
「うん、大きな街が一つもないそうだし。だけど、安全に休める場所はいるよね。……そうだ、ちょっと待って」
ヘンリーはズックのリュックから、小さな単眼鏡を取り出した。スズめっきが施されたそれは、以前山賊の略奪品から見つけた物だ。誰からも探してほしいと言われていなかったこともあり、今は彼の元で活躍中だ。
ヘンリーはそれを覗きこみ、下界を再び見回す。
「麓に小さな村があるみたい。あれがこの道の終点だな」
入山前に滞在した村での話を思い出す二人。
それを話してくれた老婆は、その小さな村のことを心配していた。ここ何ヶ月も、その村から商人や旅人が来訪していないそうだ。確かに、二人はまだ誰とも、山で会っていない。本格的に暑くない今の時期は、良い観光シーズンなのに。
「あー、それでアレがいわゆる『魔女の城』じゃない? それで、あの村は真っ先に狙われたっていう流れだよ」
ヘンリーは一人納得しながら、ジュリエットに単眼鏡を貸す。
「うん、いかにもという雰囲気だね。ポツンと建ってるのはわかりやすいけど、あれだと近づきにくくて困るね」
荒れ地の真ん中に、古く頑丈そうな城が静かに佇んでいる。空飛ぶ魔獣が火を噴きながら飛び回るといった演出は皆無だが、危険でおどろおどろしい雰囲気は、そこからでも感じ取れた。
「……いざとなればバリア使えるでしょ?」
「使えるけど、あれは自分一人用だよ?」
「ええっ、そんな!」
ジュリエットは、旅の中で集めたお金を使い、有名どころの魔法書を時々買っていた。書のすべてを習得できたわけじゃないが、自分のものにできた魔法がいくつかある。その一つが、魔力によるバリアを自分の皮膚から放つ魔法だ。瞬発的に使える点は魅力的だった。しかも、状況に合わせ、体の一部分からのみ放つことも可能だ。
「じゃあ、盾になってもらうしかないな」
「……ひどいね。キス代みたいにお金取ってもいい?」
魔族退治の旅に目途がつきつつあるのに、彼女は素晴らしい魔法書にまだ出会うつもりでいるらしい。魔法を習得して活用する前に、旅自体が終わったらどうするつもりだろうか……。
「まあ、その話は後にしよう。空模様が怪しいし」
「ホントだ。山の天気は変わりやすいもんな」
二人は早足に下山を始める。全力で走らないのは無論、安全のためだ。転倒や滑落で大ケガでも負う展開だけは避けねばならない。
しかし、そんな二人の動作をあざ笑うかの如く、たくさんの雲が空をぎゅうぎゅうに埋めてくる。今や立派な入道雲が、彼らの頭上に堂々と浮かんでいた。ゲリラ豪雨を降らせる模範生的な、とても大きな雲だ。
「……あっ、降り始めた」
ヘンリーの額に、雨粒がポツンと落ちていた。それは足の動作に合わせ、流れ落ちていく。
「急ごう」
彼女の髪にも雨粒が。
「うん、石に気をつけながら……って、うわっ!」
小雨は瞬く間に、土砂降りの雨模様に豹変してしまう。山の天候は変わりやすいものだが、豪雨と重なればさらに厄介だ。
雨で見分けづらい山道を、必死に駆け降りる二人。狭い道の左右は岩石だらけで、道のあちこちにはもう水たまりができてしまっている。気をつけながら走っていたものの、ジュリエットがとうとう転んでしまう。前のめりに派手に転んだ彼女の服は、すっかりびしょ濡れだ。彼女があと五歳ほど若ければ、涙でさらに濡らしていたに違いない。
「大丈夫?」
「そう見える?」
ヘンリーに引き起こされるジュリエット。手つなぎ状態だが、彼女からの請求は幸い無かった。
ところが、手を引いた拍子に足を滑らせ、ヘンリーが尻餅をついてしまう。思わず舌打ちした後、砂利をズボンから払い落とす。降りしきる雨の働きもあり、細かな砂まできれいに落とせた。
再び道を駆け降りる二人。全身びしょ濡れで、動作が鈍り始めた。その分さらに雨に打たれるわけで、体力損耗の悪循環へ突入してしまっている。いくら十代前半の若さとはいえ、このままでは体が持たない……。
「風邪引いちゃうよ!」
子供向けアニメで鼻水を垂らしながら吐くセリフを、ヘンリーが飛ばす。
「雨宿りできる場所がどこかに無いかな?」
「山小屋とかあるか、もっと聞いておくべきだった!」
思わず悪態までつくジュリエット。
最後に目にした屋根のある建物といえば、麓の村とあの城しか無い。もしくは洞窟さえあれば、小瓶に入れたマッチで焚き火を起こし、暖を取って休めるのだが。
「森に入れば少しは楽かもね」
彼女が明るい予測を示した。
「針葉樹ばかりだけどいけるかな?」
「とにかく急ごう!」
雨のせいで、麓はもう何も見えない。
ヘッドスライディングをかけるような勢いで、針葉樹林に突入した二人。太陽が分厚い雲に遮られ、森林内は暗く、見通しが悪い。
岩石だらけの荒い山肌で浴びていた雨粒とは違う、大粒のそれが彼らに降り注ぐ。数こそ減ったが、大きい分だけ救いが感じられない。頭にポコポコと何度も命中してしまう。
「ああホントにホント! 少しは楽になったよ!」
「楽かもねと言ったんだけど?」
周囲の配色が灰色系から緑色系に様変わりしたにも関わらず、二人は愉快なやり取りを繰り広げる。足を止めずにハキハキと話し続けるのは結構だが、無意識に慢心を晒すのはよくない……。




