第六十一話 涙
フローラルな甘い香りと、柑橘系の爽やかな匂いが鼻孔をくすぐる。
なんだか不愉快だ。
お香とは、かなり違う匂い。
香料とかじゃなくて、複数の誰かの体臭のような?
緊張感たっぷりの押し殺した声色で、誰かが言い争っているような?
限りなく不快だ。
こんなシチュエーション、前にもあったようなと目を開けると。
寝台に横たわるあたしの右手側にはフルフェイスな鉄仮面の少女。
全裸ではなく、衣服を着用しているだけで、まともそうに見える。
ただし、鉄仮面を見なかったものとする。
左手側には、高校球児のような坊主頭に精悍な顔つきの少年。
二人は言い争いを止めて、あたしに視線を落としてくる。
「朔さん、どういうことですの?」
「アニキ、この女だけは、絶対に関わっちゃ駄目ですよ!」
「口々に詰問口調で話しかけられてもねえ。あたしの方が、どういうことなのか聞きたいんですけど」
鉄仮面の少女は、志熊よね。
全裸じゃないし、口調と立ち居振舞いの雰囲気が別人のように違ってるような?
華やかな柄と色彩の小袖を着ているのに、頭部をフルフェイス鉄仮面で隠してるのは、シュールな絵面だなあ。
少年の方は記憶にはないはずなのに、知識としては何故か知っている。
もともとの身分は徒士だけれど、成績優秀で将来が期待されている、妙高戸隠という名前の少年のようだ。
一般的にみんながイメージする武士というのは、軍馬への騎乗が許された侍が該当するんだろうけれど、現実でもこの世界でも騎乗が許されるのは武士では上位階級で。
騎乗を許されず徒歩で戦う武士は、徒士に分類されるわけ。
徒士の位置づけは、軍隊における下級士官ってところかな。
この世界では、出身身分に関係なく、士官学校を上位成績で卒業すれば、将来は赤城家の馬廻衆に抜擢される可能性だってある。
家柄で人生のすべてが必ずしも決まってしまうわけじゃないあたり、この異世界はある程度社会的弱者に寛容なのかもしれない。
現実の封建主義社会はもっと過酷だったみたいだしね。
「オレは、暁様とアニキの部屋に、こっそり忍び込んだ志熊を見かねて、様子を見に来たんです」
「あたくしは、暁殿のお許しを得た上で、朔さんに夜這いに来ただけですの。お邪魔虫はサッサと立ち去りなさいな」
嫌悪感を隠さない声色で、志熊からお邪魔虫と言われた戸隠は、日に焼けて浅黒い頬を朱に染めながら、
「暁様がそのようなことを仰せでも、そのような暴挙は、オレたちが許さないですよ! 熱くたぎる男同士の友情の世界に、ビッチは立ち入らないで欲しいのです!」
ビッチ呼ばわりされて、鉄仮面越しでもわかるぐらいに、志熊は眦を大きく釣り上げて怒り出す。
「そもそも、あたくしは、朔さんに誘惑されて夜這いに来ましたのよ? お邪魔虫は最初からお呼びではなくってよ! 貴方こそ、そんな弁解を用意してまで、夜這いに来たのではなくって?」
志熊から凍りつくような冷たい眼差しを向けられても、戸隠はまったく怯まず、
「アニキは、触れた男は全てメス落ちさせてきたと常々豪語しておられますが、オレには心に決めた男がいます! たとえ相手がアニキであっても、浮気する気は全くありません!」
この野郎、なんてとんでもないことを!
そもそも、なんでこいつは、あたしのことを、アニキ呼ばわりしてんのよ!
「誰が触れた男うんぬんなんて言ったのよ! 風説の流布は止めて頂戴!」
あたしの叱責口調の懇願に対して、志熊と戸隠はお互いに見合わせてから、大きく肩をすくめてみせる。
「どんな男も自分の前ではメスになるとも、朔さんは仰ってましてよ? 男と盛るほど、精力を持て余しておられるなら、あたくしにお情けをかけてくださっても、よろしいのではなくって?」
「ギャーッ! そんなこと言ってないってば!」
夢の中の自分の部屋から穴に飛び込んで、士官学校学生寮の寮室で目覚めたところまでは良しとしよう。
志熊が全裸であたしに馬乗りになっていないのも悪くない。
だが、しかし!
あたしが男色系スケベみたいな扱いされてるのは許せない!
誰の仕業だ!
【邪気眼】あたりが、あたしのフリして、テキトーなホラを吹いて回ってるのかしら?
そもそも、時系列はどうなっているわけ?
志熊と暁姉上っぽく見せかけた紛い物に襲われたところを、五十鈴ちゃんに助けられたと思いきや、夢の中で五十鈴ちゃんに迫られたところに、リズちゃんと【邪気眼】が乱入してきて。
多分、【邪気眼】が夢の中の部屋の壁に開けた穴を潜ってきたはずよね?
で、目が覚めたら、立ち居振る舞いがガラリと変わった志熊と戸隠が、あたしを巡って口論してると。
何がなんやら、わけがわからないし、今はこの二人に関わっている場合じゃないのよ。
あたしは調息して思考を切り替える。
「そろそろ暁姉上が帰ってくるでしょうし、二人とも自分の部屋に帰ってもらえないかしら。それに、寮監が見回りに来るかもしれないでしょ?」
寮監と聞いて二人の顔色が変わる。
どうやら、暁姉上よりも、寮監の方が怖いようね。
あっちの寮監は五十鈴ちゃんだったけれど、こっちではどうなってるのやら。
「お邪魔虫に関わったせいで、機を逸したみたいですわね。では、朔さん、ごきげんよう」
「今夜のところは志熊が諦めてくれたのなら、オレも自室に戻ります。アニキ、身の危険を感じたら、いつでもオレを呼んでください」
二人は、口々にそう言い残すと、足早に立ち去ってしまう。
平穏と静寂が戻ってきた部屋で、あたしは大きなため息を漏らしてしまう。
やれやれ。暁姉上の帰りを待ってないで、探しに行った方がいいかも。
寝間着から手早く作務衣に着替え、腰を深く落とした【九頭龍】独特の構えを取る。
再び調息して、暁姉上の気配を感じられないか、五感を鋭敏化すると、他にも見知った気配を学生寮内部から感じ取ることができた。
朝陽さまと陽月さまご姉弟、鳥海凪君、葛城梓さんといった武家の子弟は無事に士官学校に在籍中みたい。
暁姉上の気配が見つかったけれど、傍にいるのは、もしかして紅葉ちゃんかしら?
二人の気配がこちらに向かってきているのを把握して、呼びに行くのではなく待つことにする。
さほど待たされずに、部屋の扉が軋んだ音をたてる。
あたしの顔を見た暁姉上と紅葉ちゃんは、表情に喜色を浮かべて走り寄ってくる。
「おかえりなさい、朔」
珍しく抱きついてきた暁姉上をしっかりと抱きとめると。嗚咽を漏らし始める。
……暁姉上が泣いてるところなんて、生まれて初めて見たかもしれない。
「リズは上手くやったようね」
紅葉ちゃんは、あたしに縋り付く暁姉上の右肩を軽く叩いてから、
「積もる話があるところだし、朔の夢の中に行きましょう」
紅葉ちゃんが祝詞を唱えると、彼女の足元から、【月の女神】さまの神紋が部屋の床全体に広がっていく。
神通力を使えなくなってしまった今のあたしにも、紅葉ちゃんの神通力が以前より見違えるほど強化されていることがよく分かる。
居住まいを正した暁姉上は、あたしの右手に自分の右手を重ねて、高く掲げあげる。
すると、あたしの右手の甲に、【月の女神】さまの神紋が燃えるように浮かび上がる。
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視界が暗転し、気がつくと、夢の中のあたしの部屋の中に周囲の光景が変わっている。
紅葉ちゃんだけでなく、暁姉上も夢の中に来てしまったみたいだけれど、いいのかしら。
部屋の中では、もう見慣れたルル皇太女が、ちゃぶ台の前でお茶の用意をしていた。
ルル皇太女はあたしたちに気がついたのか、こちらに視線を向けてくる。
「久しいのう、我が契約者よ。何時までも寝ていないで、こちらに来るがいい。至高の神格がこれより降臨されるのだ。失礼無きよう振る舞え」
ベッドに横たわっていたあたしは、暁姉上と紅葉ちゃんの手を借りて、手早く身繕いを済ませる。
あたしの夢の中って、いろんな神格がお出ましになりすぎなんですけど。
ちゃぶ台の前に、皆で正座して背筋を伸ばしていると、あたしの髪の毛の根本が焼けるように熱くなり始める。
髪の毛には、【蜘蛛神】さまの加護が宿っていたはずだけれど、勝手に動き出したアホ毛が宙に描き始めたのは、【豊穣の女神】さまの神紋だった。
「いあ、しゅぶ=にぐらす!」
あたしはごく自然に、【豊穣の女神】さまを称える祝詞を口にすると、ルル皇太女の背後に、視界が圧力で潰されそうなほど、強い存在感を放つ妖艶な姿の女性が顕れる。
全員、平伏してお迎えする。
「面を上げなさいな~。ようやく帰ってきたようね、高雄朔~。蒼き月を受け継ぐものよ。私は豊穣の女神こと、シュブ=ニグラス。シュブさまって気安く声をかけても良くってよー♪」
などと宣う女神さまは、気安さなど感じさせない、背筋が凍るような視線をあたしに向けている。
……七五三でご加護を受けた後も、朝陽さまと一緒に何度も神社にお参りに行ってたんだけどなあ。
なにか、怒らせるようなことをしてしまってたのかしらん。




