第九十八話:泥を啜り、命を繋ぐ
第九十八話:泥を啜り、命を繋ぐ
東部戦線は、もはや戦場ですらなかった。
最強の幹部、デスナイトロードを一撃で消失させた「黒い怪物」の出現に、数万の魔族軍勢は恐慌に陥り、蜘蛛の子を散らすように撤退を始めていた。
「……逃がさない。方角は、バルバロイと同じ……合流地点か」
サキモリは、血と汗でドロドロになった軍服の袖で視界を拭う。
赤黒く光るその眼光は、遥か彼方、中央戦線の微かな振動を捉えていた。
しかし、代償はあまりに大きかった。
全盛期のスペック――心拍数三倍、血圧三倍、筋力三十倍という異常状態を維持するために、彼の肉体は凄まじい「燃料不足」に陥っていた。
一般人の三十倍という爆発的な代謝は、わずか数分の戦闘で数日分のカロリーを焼き尽くす。
胃壁が自らを溶かすような空腹と、全身の血管が焼き切れるような激痛。
「ア、ガ……。カハッ、栄養……補給……」
サキモリは走りながら、迷うことなくその場に跪き、大地を掴んだ。
土に塗れた雑草を根こそぎ引き抜き、泥水が溜まった窪みに顔を埋める。
泥、腐った木の根、這い出す虫、そして毒性を持つ野草。
「サ、サキモリ様!? 何を……そんなものを食べたら!」
背後でエレンが悲鳴を上げる。
だが、サキモリの顎は止まらない。
ボリボリ、と生物が発するべきではない咀嚼音が荒野に響く。
普通の人間に、そんな真似は不可能だ。泥を啜れば病原菌に侵され、毒草を食えば内臓が壊死する。
しかし、一般人の三十倍の代謝を誇る今のサキモリにとって、細菌や毒は繁殖する暇もなく分解され、ただの「熱量」へと変換される廃棄物に過ぎない。
泥を啜り、虫を噛み砕く。
その光景は、知性ある「管理者」の姿ではなかった。
ただ「目的」を完遂するためだけに、自らを一つの効率的な燃焼炉へと作り替えた、純粋な生物の執念。
「……問題ない。毒性、分解済み。栄養、抽出。……次だ」
サキモリが吐き出した唾液は、過剰な熱によって蒸気となり、黒い霧に混ざり合う。
激痛は消えない。血管は常に断裂し、筋繊維は千切れ続けている。
しかし、その瞬間に六十倍の回復力が働き、細胞が無理やり接合される。
壊しては直し、壊しては直す。
それは、死ぬよりも苦しいはずの「連続的な再生」という名の拷問だった。
「待って、サキモリ様! まだお体が――」
「時間は、待ってくれない。……中央へ行く」
エレンの制止が届く前に、サキモリの肉体は再び「爆発」した。
一歩。大地を粉砕する踏み込み。
摂取したばかりの泥や草が、凄まじい速度で「力」へと再構成され、彼の肉体を弾丸のように加速させる。
不眠不休。不飲不食。
泥を燃料に、激痛を酸素に変えて、サキモリは血と蒸気の航跡を残しながら、中央戦線――アリサが死を待つ地獄へと、音速で突き進んでいった。
(第九十八話:完)




