第九十五話:理性の融解、黒い霧の胎動
第九十五話:理性の融解、黒い霧の胎動
バルバロイの荒野。
その中心に、音もなく「絶望」が突き刺さっていた。
「……ははっ! これが、人間軍の『頭脳』の最期か。笑わせてくれるな」
古代種、銀狼幹部が嘲笑を漏らす。
その手にある魔銀の長槍は、サキモリの脇腹を深く貫き、背後にある巨大な岩石ごと彼を縫い止めていた。
サキモリの身体から、どくどくと鮮血が溢れ出す。
だが、彼は痛みすら感じていない。
視線の先には、血まみれで這い寄ってきた伝令兵がいた。
「サ、サキモリ様……報告……を……」
「……ああ、聞いています。続けてください」
サキモリの声は、恐ろしいほどに穏やかだった。
「東部、崩壊……エレン様、消息不明。中央……アリサ様、力尽き……陥落。南部……ルミナ様、術式が焼き切れ……アルタ王都、炎上。……すべて、終わりました……」
伝令兵が力尽き、その手が砂に落ちる。
サキモリが愛し、守り、何百人もの友軍が描き続けた防衛ラインの三つの国境が、今、同時に灰塵に帰した。
機械の通知ではない。命を賭して届けられた「人間の声」が、終わりを告げたのだ。
「……そうか。友軍は、すべて燃えたか」
サキモリは、静かに俯いた。
異世界に来てからずっと、己を律し、人間社会に適合させるために維持し続けていた「物腰の柔らかい管理者」の仮面。
それが、内側からパキリと音を立てて割れた。
「――おじさんの仕事は、もう終わりだ」
サキモリの手が、自身の胸元を掴む。
ドクン。
静寂に包まれた戦場に、鼓動の音が響いた。
ドクン。ドクン。ドクン!!
「……なんだ? この音は……心音か!?」
銀狼幹部の表情が強張る。
サキモリの心拍数は、一気に通常の三倍――一分間に二百を超える超高回転へと跳ね上がった。
血圧は限界値を超え、全身の筋肉が膨れ上がり、毛細血管が次々と断裂して皮膚を赤黒く染めていく。
「ア……ガ……、カハッ……!」
サキモリの口から、空気の代わりに熱い蒸気が漏れ出す。
心臓を無理やり三倍速で動かす。
それは、全身を絶え間ない激痛と酸欠が襲う、生物としては「死んだ方がマシな地獄」だ。
だが、全盛期の彼は、その激痛を燃料に変換する術を知っていた。
シュゥゥゥッ……!!
傷口から、そして全身の毛穴から、形容しがたい「黒い霧」が噴き出した。
それは気化した血液と、溢れ出した殺意が混ざり合った、蒸気のような闇。
霧は瞬く間にサキモリを包み込み、周囲の気温を急激に上昇させていく。
「な、何を……何をした、貴様ッ!」
恐怖に駆られた銀狼幹部が槍を突き込もうとした、その瞬間。
サキモリの顔が、ゆっくりと持ち上がった。
そこに「おじさん」は、もういなかった。
光を失い、赤黒い濁った眼光を放つ、ただの「獣」。
あるいは、一人の命と引き換えに国を滅ぼす「絶望」の目だ。
「……あ、あ、あああああああ!!」
サキモリが咆哮する。
バキィィィィィィン!!
彼を岩に縫い止めていた魔銀の長槍が、筋肉の収縮だけで粉々に砕け散った。
銀狼幹部の誇る最強の武装が、ただの「鉄屑」として地面に転がる。
「……仕組み(システム)が壊れたなら、手作業でやるだけだ」
敬語は消え、声からは一切の情緒が剥落していた。
サキモリの一歩。
ただ地面を蹴ったその一歩で、大地はクレーター状に爆ぜ、彼は音速に近い衝撃波を纏って銀狼幹部の懐へと「転移」した。
「ひ、っ――」
銀狼幹部が悲鳴を上げる暇もなかった。
サキモリの全身から立ち昇る黒い霧が、戦場の太陽を隠す。
軍服は、流れ出る血と汗によってドス黒く変色し、もはや元の色は判別できない。
逆襲の始まりではない。
これは、ただの「掃除」の開始だった。
(第九十五話:完)




