第八十七話:設計図の崩落、魂の残光
第八十七話:設計図の崩落、魂の残光
戦場を支配していた「設計図」は、もうどこにも存在しない。
アリサの視界は、限界を超えた魔力の逆流によって白く霞み、音さえも遠い海の底のように濁っている。サキモリに教わった合理的な防御、重心の制御、ベクトルの計算――それらすべては、牛王がもたらす圧倒的な「力」の前に塵となって消え去った。
「……あ……ぅ……」
膝をつき、溢れる鮮血を地面に滴らせながら、アリサは震える手で地面を掴んだ。
魔力は既に枯渇し、精神を繋ぎ止める糸は今にも千切れそうだった。だが、彼女の心臓を叩くのは、恐怖ではない。サキモリと交わした、あどけないほどの、けれど絶対に譲れない約束だった。
(誰も死なせない……。私が、あなたの盾になると……決めたから)
「――立ちなさい、アイギス!」
アリサが叫ぶ。
それは魔力による術式展開ではない。自らの命そのもの、魂の輝き(オーラ)を強引に削り出し、物理的な形へと結実させた禁忌の防衛。
「魂のアイギス」――。
それはこれまでの幾何学的な盾とは異なり、燃え盛る白銀の炎のように、不規則で、しかし神々しいまでの光を放ち、六百人の兵士を包み込んだ。
アリサの意識が白く染まっていくのと引き換えに、盾の輝きは増していく。理論を捨て、計算を捨て、ただ「守る」という純粋な意志だけで構成された、構造なき絶対防壁。
「団長……!? やめてください、そんなことをしたら貴女の命が!」
「これ以上、俺たちのために……死なないでくれ!」
背後の一般兵たちが、涙を流しながら叫ぶ。彼らの目には、透き通るほど白くなったアリサの横顔が、今にも消えてしまいそうな幻に見えた。
彼らは悟った。この盾は、彼女の命を燃料にして燃えているのだと。
兵士たちは震える手で剣を握り直し、アリサの作り出した「最後の数秒」を無駄にせじと、押し寄せる牛魔族へ必死の抵抗を試みる。
だが、運命は非情だった。
ズゥゥゥン……!
地響きを立てて一歩前へ出たのは、黒き牛王。
彼は無造作に、背負っていた巨大な戦斧を両手で構えた。それは先代牛王の巨大な角を数十年かけて磨き上げたという、この世のあらゆる防御を無に帰す「最強の斧」。
「オォォォォォォォッ!!」
牛王の咆哮が、大気を物理的に震わせる。
振り上げられた戦斧が、逆光を浴びて死神の鎌のように巨大な影を落とした。
アリサは白濁した瞳で、その終焉を見上げる。
ドォォォォォォン!!
魂を削って作り上げた「魂の盾」の中心に、牛王の渾身の一撃が叩き込まれた。
凄まじい衝撃波が周囲の岩肌を粉砕し、白銀の盾に、漆黒の戦斧が深く、深く突き刺さる。
アリサの精神が、物理的な破壊音と共に、真っ二つに割れた。
(第八十七話:完)




