第八十六話:黒い牛王と「魔法破壊」の角
第八十六話:黒い牛王と「魔法破壊」の角
空気が、死を孕んだ重圧に塗り替えられた。
正規兵の波が完全に左右へ割れ、戦場の中央に広大な「空白」が生まれる。そこから現れたのは、これまでの牛魔族さえも矮小に見せる、古代の絶望そのものだった。
「――古代種、牛王」
アリサの喉が、恐怖で引き攣る。
漆黒の体躯は四メートルを超え、その手には巨大な戦斧。そして何より、頭上にそびえ立つ二本の角。それはもはや生物の器官ではなく、あらゆる理を拒絶し、粉砕するために造られた「暴力の結晶」だった。
牛王が低く咆哮を上げる。それを合図に、控えていた千体の牛魔族が一斉に角を突き立て、地を蹴った。
「総員、最大警戒! 盾を重ねなさい!」
アリサは残された魔力のすべてを絞り出し、六百人の兵士を覆うほどの巨大な多層アイギスを展開する。サキモリの理論に基づき、最も頑丈で、最も効率的な幾何学構造。これまでの正規兵なら、万単位の攻撃でも防ぎきるはずの「絶対の壁」だ。
だが。
ドォォォォォォン!!
先頭の牛魔族の角がアイギスに「触れた」瞬間、アリサの計算は物理的に破綻した。
受け流すことも、分散させることもできない。彼らの角に宿るのは、万物をただその「硬度」と「力」のみでねじ伏せる、純粋な破壊の意志。
パリンッ!
――パリン、パリン、パリンッ!!
「……っ!? な、に……これ……」
アリサがどれほど重心を低く保ち、衝撃の軌道を制御しても、角がかすめた場所からアイギスが薄氷のように砕け散っていく。魔法的な剛性など、彼らの圧倒的な物理攻撃力の前では、存在しないも同義だった。理論も、技術も、合理も。牛王たちが一歩踏み込むたびに、アリサが築き上げた設計図が文字通り「物理的に」叩き壊されていく。
「ああああああッ!!」
アイギスが砕けるたびに、魔力回路を通じてアリサの精神に猛烈な衝撃が逆流する。
サキモリに教わった「構造の美しさ」が、ただの力任せな暴力によって蹂躙される。その屈辱と苦痛が、彼女の脳を内側から焼き焦がした。
「団長! 盾が……盾がもう持ちません!!」
叫ぶ兵士たちの目の前で、アリサが激しく身悶えし、口から鮮血をぶちまけた。
内臓を直接握り潰されたような激痛。それと同時に、彼女の脳裏に展開されていた戦場の精密なシミュレーション――「設計図」が、荒い砂嵐のようなノイズに飲み込まれていく。
敵の数、位置、衝撃の予測。
それらすべてを司っていた「管理者の視界」が、プツリと断絶した。
「……ぁ……あ……」
膝をつき、血を吐き出すアリサの視界の中で、最後の一枚となったアイギスが、牛王の振り下ろす戦斧の影に飲み込まれていく。
背後の兵士たちの絶望的な叫びも、もはや彼女の耳には届かないほど、遠くなっていた。
(第八十六話:完)




