第八十三話:不落のハニカム・ゲート
第八十三話:不落のハニカム・ゲート
ガーランド帝国の最東端、峻険な岩山に挟まれた「白銀の門」。
かつて難攻不落と謳われたその地平を、今、十万の絶望が埋め尽くしていた。
「……報告。敵軍、およそ十万。先鋒は魔族正規重装歩兵。あと五分で接敵します」
聖騎士の一人が、乾いた声で告げる。対する守備隊は、アリサ率いる聖騎士団百名と、徴募された一般兵五百名。合計、わずか六百。
一人が百六十六人を相手にする計算。それはもはや戦いではなく、屠殺を待つだけの光景にしか見えなかった。
だが、最前列に立つアリサの瞳に、怯えの色はない。
彼女の脳裏には、サキモリが淡々と語った「防衛の構造」が、鮮明な図形となって浮かんでいた。
「――全軍、盾を構えなさい。ただし、真っ向から受けてはダメ。わずかに左へ、十度の傾斜を」
アリサの声が響くと同時に、彼女の手から白光が溢れ出した。
それは巨大な壁を作るのではなく、無数の、そして極小の「破片」へと分かたれる。概念盾「アイギス」。その欠片が、六百人の兵士が構える盾の数センチ前方へ、蜂の巣のような規則性を持って浮遊し、固定された。
「来るぞッ! 衝撃に備えろ!」
地響きと共に、魔族の第一波が激突した。
身の丈3メートルほどもある巨体の魔族が、その膂力に任せて巨大な盾と剣を叩きつける。本来ならば、人間など盾ごと肉片に変わるはずの一撃。
だが、奇跡が起きた。
「……滑る? 攻撃が、滑っていくぞ!」
兵士たちが驚愕の声を上げる。
魔族の剣がアイギスの欠片に触れた瞬間、サキモリ直伝の「ベクトル誘導」が発動した。十度の傾斜をつけられた「見えない盾」は、正面からの圧力を逃がし、敵の武器を強制的に横へと逸らしていく。
キィィィィン! と鋭い金属音が鳴り響くたび、魔族たちは自分の突進力に振り回され、面白いように体勢を崩して転倒していった。
「焦らないで。盾の耐久値は私が管理します。貴方たちは、転んだ敵を確実に仕留めることだけに集中しなさい」
アリサの管制は完璧だった。
戦場全体を俯瞰し、衝撃が集中する箇所の「角度」を瞬時に微調整する。魔力を壁として張るのではなく、敵の力を利用して敵を倒す。最小の魔力で最大の防衛を成すその「仕組み」は、十万の軍勢を前にして、一人の戦死者も出さないという不可能な数式を成立させていた。
「これなら……これなら勝てるぞ! 聖騎士団長についていけば、俺たちは死なない!」
一時間後。
門の前には数千の魔族の骸が積み上がり、人間側の被害は皆無。
絶望的な数差を「理屈」でひっくり返した快感に、兵士たちは熱狂し、勝利を確信した。
だが。
その歓喜を切り裂くように、地平線の彼方から、先ほどまでの足音とは明らかに質の違う「地鳴り」が響き始めた。
大気を震わせ、内臓を揺さぶるような、不気味な重低音。
アリサの顔から、さっと血の気が引いていく。
彼女の鍛え抜かれた視力が捉えたのは、さらに勢いを増し勢力を増やした正規兵の本隊が、悠然と歩を進めてくる一団だった。
「……ここまでの物量は初めてだな……」
アリサの呟きは、兵士たちの勝ち鬨にかき消された。
その「地鳴り」が近づくにつれ、不落を誇ったハニカム・ゲートが、物理的な振動だけで、悲鳴のような軋みを上げ始めていた。
(第八十三話:完)
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