第八十話:潜行する「死」
第八十話:潜行する「死」
その瞬間、戦場を支配していた喧騒が、潮が引くように消え去った。
エレンが展開していた牽制の弾幕が、漆黒の甲冑に弾かれ、虚しく火花を散らす。あれほど猛り狂っていた魔族の軍勢が、まるで「より上位の捕食者」に道を譲るかのように、一斉に後退を始めた。
「……見えている。なのに、どうして」
エレンは充血した目を剥き、数キロ先の視界を凝視する。
彼女の千里眼は、霧を割り、瓦礫を透かし、進軍してくる「黒い一団」の姿を鮮明に捉えていた。逃げも隠れもしない。ただ正面から、一糸乱れぬ隊列でこちらへ向かってくるデスナイトたちの姿を。
だが、視認できているからといって、それが「迎撃可能」であることを意味しない。
「……な、に……? 私の矢が、通らない……?」
エレンが放つ精密な魔力矢。それは先ほどまで、魔族の厚い皮膚や盾をバターのように切り裂いてきた。しかし、進軍してくる漆黒の騎士たち――デスナイトたちの甲冑には、かすり傷一つ負わせることができない。
彼らは魔力的な障壁に頼っているわけではない。ただ、その甲冑が、その不死の肉体が、純粋に「硬い」のだ。魔法も物理も等しく跳ね返す、物理的限界を超えた硬度の壁。
さらに、エレンの最大の武器である「隠密」すらも、彼らの前では無価値だった。
彼女がどれほど気配を消し、透過魔法で姿を消そうとも、アンデッドである彼らにとっての「目」は、生命の輝き……すなわち魂そのものを捉える。隠れても、消えても、彼らの虚ろな眼窩に宿る鬼火は、常にエレンの心臓を正確に捕捉していた。
(……サキモリ様の教えが、通用しない……!?)
弾道計算、弱点への必中、空間の支配。
それら「技術」のすべてが、ただ正面から歩いてくるだけの「死の質量」によって、無慈悲に否定されていく。
「ひ、悲鳴……ッ!」
時計塔の周辺を守備していた味方兵士たちが、次々と沈黙していく。
それは奇襲ではない。正面から、圧倒的な力で、なす術もなく踏みつぶされていく絶望の音。逃げ場を失った兵士たちの魂が、黒い鉄靴の下で次々と刈り取られていく。
エレンは震える手で弓を構えた。鼻血が喉に流れ込み、鉄の味が口内に広がる。
そして、その「音」は塔の真下から響いた。
――ガシャアァン!
時計塔の頑丈な鉄扉が、巨大な鉄塊をぶつけられたかのように粉砕される。
続いて、石造りの階段を一段ずつ、暴力的なまでの重みで踏みしめる鉄靴の響き。
ドォ、ドォ、ドォ……。
その足音には、一切の躊躇も、焦りも、感情もなかった。
ただ事務的に、最上軍事目標である「狙撃手」との距離を詰め、死を運ぶためだけの冷徹なリズム。
エレンの背筋を、氷のような寒気が駆け抜ける。
サキモリに救い出されたあの日、自らの無力さに絶望した記憶が、再び黒い影となって彼女を飲み込もうとしていた。
「……来る。……サキモリ様……!」
エレンは鼻血を拭い、弓を引き絞る。
視界はノイズで赤く染まり、魔力は底を突きかけている。
それでも彼女は逃げない。ここで逃げれば、自分の価値を証明してくれたあの男を、裏切ることになるから。
ドォ、ドォ――。
足音が、すぐ下の階層まで迫る。
エレンは、弓を引く指の震えを、自身の肉体を呪うようにして抑え込んだ。
暗闇の中から、青白い鬼火のような瞳を宿した「黒い巨躯」――デスナイトロードが、その圧倒的な威圧感と共に、姿を現そうとしていた。
(第八十話:完)




