第七十九話:視界のノイズと摩耗
第七十九話:視界のノイズと摩耗
クレイオス公国を包む静寂は、長くは続かなかった。
先遣隊一〇〇〇を殲滅したエレンの眼前に、霧を割り、地平線を黒く塗りつぶす「魔族の本軍」が姿を現したからだ。
「……第二波、来ます」
エレンは時計塔の縁に指をかけ、無理やり体を支えた。
先ほどの「面制圧」は完璧だった。しかし、その代償はあまりにも重い。数キロ先の敵の心臓を、髪の毛一本の狂いもなく捉え続けるための「千里眼」。そして、大気中の魔素を強引に矢へと変える「魔力回路」。それらを極限まで回し続けた彼女の肉体は、オーバーヒートを起こした機械のように悲鳴を上げていた。
「ッ……!?」
突如、視界がぐにゃりと歪んだ。
鮮明だった戦場の設計図に、テレビの砂嵐のような「ノイズ」が走る。酷使しすぎた視神経が限界を迎え、焦点が合わない。右目は真っ赤に充血し、こめかみの奥を、熱く焼けた鉄串で貫かれるような激痛が走る。
(……精度が、落ちている。計算式が、組み上がらない……!)
エレンは歯を食いしばり、光の弦を引いた。
魔法陣から放たれた十数発の矢。だが、それは先ほどのような「急所を確実に穿つ死の網」にはならなかった。計算のわずかな狂い。ミリ単位のズレ。矢は魔族の急所を逸れ、肩や足を掠めるに留まる。
「狙撃が弱まったぞ! 今だ、一気に詰めろ!」
敵軍が勢いづく。
一人、また一人と、エレンの「絶対不可侵圏」を突破し、時計塔の足元へと肉薄してくる。
エレンは即座に戦術を切り替えた。
確殺を狙う精密射撃から、着弾時の衝撃と光で敵を足止めする「牽制弾幕」への移行。
『エレン、覚えておいてください。狙撃手による「牽制」は、戦場の構造を維持するための要です。敵の足を止め、体勢を崩させる。それだけで戦場の主導権は渡さずに済みますから』
サキモリの穏やかな教えが、痛む脳裏に響く。
だが、今の状況において、その教えには残酷な「前提条件」が欠けていた。
サキモリの説く牽制は、本来、前線で戦う味方の進軍を助けるためのもの。
しかし、今この場に、エレンが作った隙を突いて敵を仕留めてくれる味方はいない。どれほど見事に足を止め、体勢を崩させても、それは「死」を先送りにするだけの行為。決定打を欠いた牽制の雨は、倒すべき敵を減らすことなく、ただエレンの魔力と集中力を無意味に削り取っていく。
「ハッ、ハァッ、ハァッ……!」
呼吸が荒くなる。魔力を放出し続ければ続けるほど、体温は異常に上昇し、意識が遠のいていく。
集中力が途切れた瞬間、一匹の魔族が放った投げ斧が、時計塔の石柱を砕き、エレンの頬を鋭く切り裂いた。
「……しまっ……」
恐怖が背中を走る。
かつての、蹂躙されるだけだった自分に戻ってしまうのか。
否。
「……私は、もう……あの時とは、違う……!」
エレンは自身の太ももを、折れた矢の破片で深く突き刺した。
鋭い激痛が、混濁し始めた意識を無理やり戦場へと引き戻す。痛みで無理やり視界を固定し、流れる鼻血を手の甲で無造作に拭った。
「サキモリ様が……私を、信じてくれた。……それだけで、私は最強になれる……!」
執念。
それは、もはや理論や効率を超えた、狂気的なまでの「想い」だった。
エレンは、真っ赤に染まった瞳を見開き、暗転しそうな世界に抗い続けた。
ヒュンッ、ヒュンッ、ヒュンッ……!
止まらない光の連射。
だが、どれほど足を止めても、敵の波は途切れることがない。牽制で崩れた敵を、さらに別の敵が踏み越えてくる。終わりなき消耗戦。一射ごとに魔力が削られ、一秒ごとに命の灯火が細くなっていく。
「まだ……。まだ、私は……あの方の役に、立てる……!」
エレンは、真っ赤に染まった瞳を見開き、暗転しそうな世界に抗い続けた。
だが、その限界は、彼女が思うよりもずっと近くに迫っていた。
霧の奥から、エレンの命を削った「牽制」すらも、ただのそよ風のように受け流す「本物の絶望」が歩み寄っていることに、彼女はまだ気づいていなかった。
(第七十九話:完)




