第七十六話:残弾のジレンマ
第七十六話:残弾のジレンマ
東部戦線、クレイオス公国。かつて魔族に蹂躙され、陥落の憂き目にあったこの国は、今再び黒い軍勢の脅威にさらされていた。
街の中心部にそびえる、半ば崩れかけた時計塔。
その最上階、歯車が剥き出しになった狭い隙間に、エレンは潜んでいた。
「……三四七、三四八……。さらに後方、指揮官クラスの個体を確認」
エレンの瞳は、数キロ先の戦場を正確に捉えていた。サキモリに与えられた特別な望遠鏡など使っていない。集中力を研ぎ澄ませ、魔力を視神経に回すことで、彼女の視界は空気の揺らぎさえも情報として読み取っていた。
手にした長弓を引き絞る。
放たれた矢は、風の抵抗を計算し尽くした放物線を描き、密集して進軍する魔族の盾の隙間――わずか数センチの喉元を貫いた。
「次……」
流れるような動作で、エレンの手が背中の矢筒へと伸びる。
だが――その指先が触れたのは、冷たい矢筒の底だった。
「……あ」
乾いた音がエレンの胸に響く。
確認するまでもない。残り、三本。
開戦から数時間。彼女はこの塔から一歩も動かず、文字通り一矢報いるごとに敵の進軍を停滞させてきた。だが、魔族の物量は彼女の精密な狙撃を、文字通り「弾数」で上回ろうとしていた。
(……この三本を使い切れば、物理的な狙撃は不可能になります)
狙撃手としての冷静な思考とは裏腹に、一人の少女としての本能が、冷たい汗を背中に走らせる。
もしここを突破されれば、かつてのようにこの街は再び蹂躙されるだろう。そして何より、バルバロイで一人、すべてを背負って戦っているサキモリを支える「盾」としての役割を果たせなくなる。
(サキモリ様……)
脳裏に浮かぶのは、孤高の背中だ。
かつて、勝ち筋の見えないレジスタンス活動の中で、ただ死を待つだけだった自分たちに力を貸し、クレイオスを魔族の手から奪還してくれた男。サキモリは自分を、ただの便利な武器として見ているのではない。数少ない信頼すべき仲間であり、背中を任せられる戦力として認めてくれた。
「……負けるわけには、いかない。あの方が信じてくれた私を、私が裏切るわけには……!」
エレンにとって、サキモリの隣で戦い続けることこそが、今の彼女を支える唯一の誇りだった。
その場所を守るためなら、指が千切れても弓を引き続ける。
「行かせない。一歩も、ここから先へは」
エレンは震える手で、残りの矢を一本、番えた。
矢を一射減らすたびに、サキモリとの信頼に応えようとする猶予が、一秒、また一秒と削られていく。物理的な矢の重みが消えるたび、彼女の心には焦燥が重くのしかかった。
ヒュン、と空気を裂く音が、二度、三度。
放たれた最後の一群は、吸い込まれるように魔族の隊列の中央を射抜き、敵の足を止める。
そして――エレンの背負った矢筒は、完全な「空」となった。
周囲を囲む魔族たちが、狙撃の止まった時計塔を指差し、勝ち誇ったような咆哮を上げる。彼らは知っている。弓兵から矢を奪えば、それは牙を抜かれた獣に等しいことを。
だが、エレンの瞳から光は消えていない。
むしろ、物理的な制約から解き放たれたかのような、鋭く、青い魔力の光がその瞳に宿った。
「サキモリ様……。見ていてください。私は、あなたの『最高傑作』でありたいのです」
エレンは、使い古された革の矢筒を、無造作に塔の下へと投げ捨てた。
空中で舞う矢筒。それが地面に落ちるよりも早く、彼女の両手から青白い魔力が溢れ出し、実体のない「光の弦」を形成していく。
サキモリから教わった、弾道の理論。
サキモリに見せてもらった、空間の支配。
信頼という名の重圧を、彼女は今、最強の出力へと変換し始めた。
「……あの方に教わったことを、今、すべて使います」
エレンの瞳が、深く発光する。
矢のない弓を構えた彼女の背後に、幾何学的な魔法陣が幾重にも重なり、展開され始めた。
(第七十六話:完)




